横浜開港資料館

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What's New「ミニ展示コーナー」

2021年度

横浜海岸教会 誕生から150年

【会期】2022(令和4)年5月27日(金)〜 8月25日(木)
  前期「教会の誕生と発展」:5月27日(金)〜 7月3日(日)
  後期「震災からの復興」:7月5日(火)〜8月25日(木)
【会場】新館2階 ミニ展示コーナー

今から150年前の1872(明治5)年3月10日、改革派の宣教師バラから受洗した11人の信徒によって、日本最初のプロテスタント教会である日本基督公会、現在の横浜海岸教会が創設されました。日本基督公会は、居留地167番地(現在の教会所在地)に建てられた会堂を拠点に、その後のプロテスタント伝道の中心となる人物を多く輩出しました。

明治期の会堂は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で倒壊しますが、その後の仮会堂の時代を経て、1933(昭和8)年に現在の会堂が献堂されました。会堂は1945(昭和20)年の横浜大空襲を乗り越えて、現在に至っています。1989(平成元)年には、横浜市認定歴史的建造物となりました。

本展示では、2015(平成27)年に横浜海岸教会から寄託された資料を中心に、(1)教会草創期(2)震災復興期、の2つの時期の教会の活動を紹介します。

明治期の会堂(左) 震災後に再建された現在の会堂(右)
復興記念横浜大博覧会記念絵葉書(1935年)より
横浜海岸教会所蔵・当館保管
明治期の会堂震災後に再建された現在の会堂

日本最古のスポーツクラブ YC&AC

【会期】2021(令和3)年12月3日(金)〜2022(令和4)年5月26日(木)
    ※3月4日(金)より一部展示替えを行い、会期を延長いたしました。
【会場】横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

横浜は近代スポーツ伝来の地のひとつです。開港後、横浜に住み始めた外国人たちによって、居留地では様々なスポーツが行われ、ここから日本中に近代スポーツが浸透していきました。居留地におけるスポーツの発展には、各種のスポーツクラブが大きな役割を果たしましたが、なかでも1868(明治元)年に設立されたYCC(横浜クリケット・クラブ)を源流とするYC&AC(横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ)は、150年以上もの歴史を持つ日本最古のスポーツクラブで、現在でも活動を継続しています。YC&ACは1884(明治17)年にYCCと他の団体が合併して発足し、クリケット、ラグビー、陸上競技、野球、テニス、サッカーなど、諸種のスポーツを楽しむ外国人の社交場としての役割を果たしました。所在地は最初は横浜公園でしたが、1912(大正元)年に現在の中区矢口台に移転します。

YC&ACで行われた様々なスポーツのうち、今回の展示で特に取り上げるのが、サッカーです。YC&ACのサッカークラブは、2018(平成30)年に日本最古のクラブとしてイングランドのシェフィールドFCから認定されました。同FCは1857(安政4)年に設立された世界最古のサッカークラブとして国際サッカー連盟 (FIFA)から認められたチームで、2013(平成25)年に世界各国の最古のサッカークラブでつくるクラブ・オブ・パイオニアーズを設立し、各国のサッカー史の発掘に努めています。YC&ACは1887(明治20)年に横浜で発行された新聞『ジャパン・ウィークリー・メイル』の記事が根拠となり、クラブ・オブ・パイオニアーズの20番目のメンバーに認定されることになりました。

今回の展示では、当館が所蔵するYC&AC関係資料のほか、日本人で初めてYC&AC理事長となった細貝貞夫氏より、横浜市へ寄贈が予定されているYC&ACサッカー関連の資料を展示します。横浜の外国人社会において最も伝統のある社交クラブの歴史に触れていただければ幸いです。

図1 YC&ACフットボールチーム集合写真と雨天試合の様子が描かれた写真帳
1907(明治40)年 ランバート氏旧蔵写真帳 当館蔵
図1 YC&ACフットボールチーム集合写真と雨天試合の様子が描かれた写真帳 1907(明治40)年 ランバート氏旧蔵写真帳 当館蔵
図2 横浜公園内でのサッカーの試合
明治期 当館蔵
図2 横浜公園内でのサッカーの試合明治期 当館蔵

横浜市営交通100周年・関東大震災98周年
横浜市電の被災と復旧

【会期】2021(令和3)年9月1日(水)〜12月2日(木)
【会場】横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

横浜市民の足であった路面電車、通称「横浜市電」は1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大きな被害を受けました。1921年4月1日に横浜市電気局が運営することになった横浜市電は、震災当時、143両の車両を運用していましたが、運転中であった88両中57両を焼失、また、貨車1両を失いました。さらに高島町の車庫にあった17両が火災によって失われたほか、滝頭の修繕工場でも建物の倒潰によって19両を失います。施設や線路も各所で破壊され、横浜市電の機能は完全に停止しました。

地震発生の混乱のため、様々な資材が不足しますが、横浜市電気局は新規路線拡張のために保管していた資材を線路等の復旧にあてていきます。また、同じく路面電車を運用する大阪市や京都市、名古屋市の協力を得たほか、千葉に駐屯する鉄道第1連隊も各種工事を展開していきました。その結果、地震発生の1ケ月後、10月2日の神奈川―馬車道間の営業再開を皮切りに、横浜市電は順次復旧していきます。今回は当館所蔵の写真資料を中心に、横浜市電の被害と復旧の様子を紹介します。

図1 本牧箕輪下停留場付近の車両
『大震火災電気鉄道被害情況』所収 1923(大正12)年9月 当館蔵
図1 本牧箕輪下停留場付近の車両 『大震火災電気鉄道被害情況』所収 1923(大正12)年9月 当館蔵
図2 神奈川停留場とバラック電車
前川謙三撮影 1923(大正12)年10月 当館蔵
図2 神奈川停留場とバラック電車 前川謙三撮影 1923(大正12)年10月 当館蔵

「横浜のまちづくりの父」R・H・ブラントン(Richard Henry Brunton)

会期:6月2日(水)〜8月29日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー

「日本の灯台の父」として知られるブラントン(1841〜1901)は、「横浜のまちづくりの父」とも呼ばれ、今年は生誕180年・没後120年にあたります。 ブラントンは、日本政府に雇われて1868(慶応4・明治元)年に来日しました。27歳の時でした。76(明治9)年に帰国するまでの8年間、全国各地で灯台築造を主導しながら、開港都市として歩み始めたばかりの横浜のまちづくりにも大きな足跡をのこしました。

以下は、ブラントンが手がけたおもな事業や計画ですが、実に多岐にわたっています。ブラントンによって横浜の都市インフラ全体の近代化が進み、現在に引き継がれてきました。そして横浜の魅力的な都市景観ともなっています。

  1. 横浜居留地と横浜港の測量(1868〜70年)
  2. 鉄道敷設の意見書(1869年)
  3. 電信機の導入(1869年)
  4. 下水道敷設(1869〜77年)
  5. 道路整備(1869年)
  6. 吉田橋の鉄橋への架け替え(1869年)
  7. 上水道計画(1870年)
  8. 新埋立居留地の造成(1870〜71年)
  9. 横浜築港計画(1870〜74年)
  10. 横浜公園の造成(1871〜72年)
  11. 日本大通りの計画施工(1871〜[76]年)
  12. 堀川の拡幅(1871年)

1991(平成3)年には、ブラントン生誕150年を記念して横浜公園に胸像(澄川喜一作)が建てられました。 今回は、「ブラントン旧蔵資料」と当館所蔵の浮世絵や古写真をもとに、ブラントンが手がけたおもな事業を紹介します。

図1 晩年のブラントン
E.M.ウォーホップ(Wauchope)氏寄託・当館保管「ブラントン旧蔵資料」から
図1 晩年のブラントン E.M.ウォーホップ(Wauchope)氏寄託・当館保管「ブラントン旧蔵資料」から
図2 鉄橋に架け替えられた吉田橋
「横浜鉄橋之図」(部分) 貞秀画 1870(明治3)年 当館蔵
図2 鉄橋に架け替えられた吉田橋 「横浜鉄橋之図」(部分) 貞秀画 1870(明治3)年 当館蔵

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