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2017年度
100年前の駐横浜ベルギー総領事
会期:3月1日(木)〜5月6日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー
シャルル・バスタンCharles Bastin(1876−1965年)は、約100年前の横浜で10年間(1907−1917年)、ベルギー領事、つづいて総領事として外交官生活をおくりました。一時期はオランダ総領事も兼務し、また後に横浜領事団の団長も務めています。
1917(大正6)年にバスタンは帰国して本省勤務となり、1921(大正10)年、皇太子時代の昭和天皇がベルギーを訪問した際には接待役のひとりに選ばれています。その後、スペインのバルセロナやロンドン勤務となり、1946年に外交官生活を終えました。
この度、ご子孫より横浜関係資料の寄贈を受けました。寄贈者はバスタンの孫娘にあたるデニス・ジョーンズさんMs. Denise Jones(ベルギーのブリュッセル在住)です。資料は、(総)領事認可状や、写真帳、晩餐会のメニュー、バスタン夫妻をとりあげた新聞記事、ちりめん本など合計23件です。今回は、その中から主な資料数点を紹介します。
戌年新春企画ミニ展示
「幕末明治・横浜犬事情」
会期:1月4日(木)〜2月28日(水)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー
幕末の浮世絵師貞秀は多くの洋犬を描いた。しかし、犬だけの絵はない。いつも人とともに描かれた。貞秀の絵筆を走らせたのは、耳が垂れて足の長い洋犬それ自体だけでなく、当時の日本人の目には珍しい、外国人と犬との関係だった。
江戸時代、大多数の犬は個人が飼うものではなく、群れで村や町を徘徊する里犬(地域犬)であり、狆(ちん)以外は室内で飼われることはなかった。そのため、開港以後やって来た、行儀よく飼い主につき従い、家の中で人と一緒に暮らす洋犬の姿は、大きな驚きだった。
2018年の戌年を記念し、当館所蔵の浮世絵や古写真などから幕末明治の横浜の犬をめぐる事情を垣間見ます。
資料点数:約10点(一部は複製資料)
横浜のブドウ園とワイン
会期:11月1日(水)〜30日(木)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー
明治時代から昭和戦後にかけて、横浜にもワイナリーがありました。特に知られていたのは、保土ケ谷町帷子の中垣秀雄が経営する帷子葡萄園です。現在の観光ブドウ園のように、ブドウ棚の下に休憩所を備え、ワインやブドウの果実、ブドウジャムパン、サンドウィッチなどを楽しむことができました。
帷子葡萄園が醸造する皇国葡萄酒の特長は、園主が海外で取得した技術を活かし、所有するブドウ園の品質優良なブドウで理想的なワインを醸造し、直接消費者に提供することでした。
ここでは、かつて横浜にあったブドウ園とワイン関係の資料を紹介します。
ヘボンの和訳聖書
会期:10月3日(火)〜10月29日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー
日本最初の和英辞書『和英語林集成』が出版されてから今年で150年を迎えました。これを記念して、1月にミニ展示「ヘボンの和英辞書出版150年」を行いました。
辞書を編集したアメリカ人医師ヘボン(1815−1911)は、1859(安政6)年10月、横浜開港のわずか3カ月後に来浜(神奈川)しました。医療活動を通じてキリスト教を広める宣教医として派遣されてきたのですが、当時、日本人への布教は許されていなかったため、治療をおこなったり、医学を教えたりしながら、将来に備えて日本語の研究に励みました。1867(慶応3)年に完成した『和英語林集成』は、その成果のひとつです。
ヘボンはまた、聖書の和訳も始めていました。最初は宗派ごとに別々におこなわれていましたが、やがて宗派を超え、また日本人の協力も得て共同で行うようになり、1888(明治21)年に旧約・新約聖書の全訳が完成しました。
このミニ展示では、当館所蔵のヘボンが関わった和訳聖書の一部を紹介します。
なお、企画展「横浜の西洋人社会と日本人」(10月22日まで開催)でもヘボンを取り上げていますので、あわせてご覧ください。
関東大震災94周年
横浜地方裁判所の大震災
会期:9月1日(金)〜9月30日(土)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー
横浜開港資料館の西門(県庁側の出入口)を出て、日本大通りを横浜スタジアム方面にむかうと、本町通りを渡った右手に横浜地方裁判所が見えてきます。さらに歩道側からその正面玄関の前に立つと、左手の木陰に石碑があることに気づきます。みなさんは、この石碑の由来をご存知でしょうか。
これは関東大震災の慰霊碑で、震災から12年後の1935(昭和10)年9月1日に建立されました。1923(大正12)年9月1日、マグニチュード7.9の地震が横浜市を襲います。当時、北仲通5丁目(現・中区、横浜第二合同庁舎所在地)にあった横浜地方裁判所は震動で建物が倒潰し、その後の火災によってすべてが焼き払われました。ここで94人の方が犠牲になっており、慰霊碑の裏面には、その名前が刻まれています。
今回は当館の所蔵資料から横浜地方裁判所の被災から復旧、再建の過程をたどっていきます。
木村喜毅(よしたけ)(芥舟(かいしゅう))・浩吉関係資料 寄贈記念
木村浩吉と海軍兵学校
会期:8月9日(水)〜8月31日(木)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー
木村喜毅(芥舟)・浩吉関係資料は、1860(万延元)年に咸臨丸の司令官として太平洋横断をなしとげた軍艦奉行木村喜毅(芥舟、1830〜1901)とその嗣子、海軍少将木村浩吉(1861〜1940)に関する資料です。同資料は、1989(昭和63)年より、当館に寄託され、展示や出版で活用して参りましたが、この度、所蔵者の木村喜昭氏より寄贈していただくことになりました。ここでは、喜毅の嗣子浩吉が通い、彼の人生のバックグランドとなった築地の海軍兵学校関係資料を紹介します。
横浜の花火140年
会期:7月1日(土)〜8月6日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー
花火の季節となりました。横浜では1877(明治10)年に、平山甚太が外国から輸入された化学薬品を使い、「西洋花火」を製造して横浜公園で打ち揚げました。今から140年前のことでした。
平山は岩田茂穂とともに平山煙火(はなび)製造所をたちあげ、1880 (明治13)年頃からは、欧米向けに花火の輸出を始めました。花火には打ち揚げる時間により、昼花火と夜花火があります。平山は1883(明治16)年に、昼花火の技術により日本人で初めてアメリカの特許を取得しました。
平山煙火製造所は、明治後期に小野家に引き継がれました。外国で開催された万国博覧会で金メダルを受賞するなど、幾重にも丸く広がる日本の花火は、海外でも高く評価されています。
このコーナーでは、140年前の花火の世界を紹介します。
瓦版にみる嘉永7年ペリー来航
会期:6月6日(火)〜6月30日(金)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー
今から163年前の嘉永7年(1854)正月16日、前年6月に渡した開国を求めるアメリカ大統領親書の回答を得るため、ペリー艦隊が再び東京湾へ来航します。2月6日、幕府は武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(現在の神奈川県庁・横浜開港資料館の一帯)に応接所を設置し、約1か月にわたる交渉を行い、3月3日に日米和親条約を締結します。これによって日本は開国することとなりました。なお、嘉永7年は11月27日に改元され、安政元年となります。
その後、安政5年(1858)にはアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5か国との間で修好通商条約が結ばれ、翌安政6年(1859)6月2日に横浜が開港します。
今回の展示では、こうした開国・開港の始まりとなった嘉永7年におけるペリー来航の様子を、当時作成された瓦版によって紹介します。
第33回全国緑化よこはまフェア協賛
川和の菊と「松林甫」
会期:4月15日(土)〜6月4日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー
「松林甫(しょうりんぽ)」は、現在の都筑区川和町にかつてあった菊園でした。この菊園を経営したのは同地に江戸時代から住んでいた中山家で、同家は文政12(1829)年から菊の栽培を始めたと伝えられます。もっとも菊の栽培が盛んだったのは明治時代から昭和初年で、明治時代末年には1500種類以上もの菊が栽培されました。栽培された菊は、江戸で流行した「江戸菊」(中菊とも呼ばれた)で、秋にはさまざまな菊が咲きほこりました。また、同家の菊は一般にも公開され、秋におこなわれた観菊会には多くの人びとが川和の地を訪れました。
「松林甫」の菊は全国的にも有名で、明治14(1881)年には皇室に菊を献上しています。また、「松林甫」の観菊会には著名人が相次いで訪れ、明治35(1902)年11月21日に発行された「横浜新報」は、大隈重信や松方正義、宮内大臣をつとめた土方久元、第2代韓国統監に就任する曽根荒助らが川和にやってきたと伝えています。さらに、中山家に残された写真アルバムには相次いで神奈川県知事をつとめた周布公平や有吉忠一も写されています。「松林甫」は政治家たちの憩いの場所だったのかもしれません。
- 旧館1階記念ホールにおいても、第33回全国緑化よこはまフェアに協賛してペリー来航時のプラントハンターの活躍を紹介したミニパネル展示を開催します。