横浜開港資料館

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What's New「ミニ展示コーナー」

2017年度

木村喜毅(よしたけ)(芥舟(かいしゅう))・浩吉関係資料 寄贈記念
木村浩吉と海軍兵学校

会期:8月9日(水)〜8月31日(木)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

木村喜毅(芥舟)・浩吉関係資料は、1860(万延元)年に咸臨丸の司令官として太平洋横断をなしとげた軍艦奉行木村喜毅(芥舟、1830〜1901)とその嗣子、海軍少将木村浩吉(1861〜1940)に関する資料です。同資料は、1989(昭和63)年より、当館に寄託され、展示や出版で活用して参りましたが、この度、所蔵者の木村喜昭氏より寄贈していただくことになりました。ここでは、喜毅の嗣子浩吉が通い、彼の人生のバックグランドとなった築地の海軍兵学校関係資料を紹介します。

愛宕艦長時代の木村浩吉 1902(明治35)年 上海にて撮影 木村喜昭氏寄贈 当館所蔵
 浩吉は、1874(明治7)年に海軍兵学校予科に入学し、1882(明治15)年、本科を優秀な成績で卒業し、海軍士官の道を歩み始めます。日清戦争で武勲をたてるなど活躍し、1909(明治42)年には海軍少将となりました。
愛宕艦長時代の木村浩吉 1902(明治35)年 上海にて撮影 木村喜昭氏寄贈 当館所蔵

横浜の花火140年

会期:7月1日(土)〜8月6日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

花火の季節となりました。横浜では1877(明治10)年に、平山甚太が外国から輸入された化学薬品を使い、「西洋花火」を製造して横浜公園で打ち揚げました。今から140年前のことでした。

平山は岩田茂穂とともに平山煙火(はなび)製造所をたちあげ、1880 (明治13)年頃からは、欧米向けに花火の輸出を始めました。花火には打ち揚げる時間により、昼花火と夜花火があります。平山は1883(明治16)年に、昼花火の技術により日本人で初めてアメリカの特許を取得しました。

平山煙火製造所は、明治後期に小野家に引き継がれました。外国で開催された万国博覧会で金メダルを受賞するなど、幾重にも丸く広がる日本の花火は、海外でも高く評価されています。

このコーナーでは、140年前の花火の世界を紹介します。

『大日本横浜平山昼煙火全図』
小野哲男氏寄託(当館保管)
『大日本横浜平山昼煙火全図』 小野哲男氏寄託(当館保管)
昼花火の図版 伊東家所蔵
昼花火の図版 伊東家所蔵

瓦版にみる嘉永7年ペリー来航

会期:6月6日(火)〜6月30日(金)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

今から163年前の嘉永7年(1854)正月16日、前年6月に渡した開国を求めるアメリカ大統領親書の回答を得るため、ペリー艦隊が再び東京湾へ来航します。2月6日、幕府は武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(現在の神奈川県庁・横浜開港資料館の一帯)に応接所を設置し、約1か月にわたる交渉を行い、3月3日に日米和親条約を締結します。これによって日本は開国することとなりました。なお、嘉永7年は11月27日に改元され、安政元年となります。

その後、安政5年(1858)にはアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5か国との間で修好通商条約が結ばれ、翌安政6年(1859)6月2日に横浜が開港します。

今回の展示では、こうした開国・開港の始まりとなった嘉永7年におけるペリー来航の様子を、当時作成された瓦版によって紹介します。

浦賀囲図 当館所蔵
嘉永7年(1854)頃の東京湾・相模湾の「海防」(=海岸防備)の状況を示す絵図。画面左下に江戸、下部中央に浦賀が先端として配置されている三浦半島、右下に伊豆半島が、それぞれ描かれている。上部が房総半島になる。左下の江戸へ向けて、右上よりペリー艦隊が来航する構図。
浦賀囲図 当館所蔵

第33回全国緑化よこはまフェア協賛
川和の菊と「松林甫」

会期:4月15日(土)〜6月4日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

「松林甫(しょうりんぽ)」は、現在の都筑区川和町にかつてあった菊園でした。この菊園を経営したのは同地に江戸時代から住んでいた中山家で、同家は文政12(1829)年から菊の栽培を始めたと伝えられます。もっとも菊の栽培が盛んだったのは明治時代から昭和初年で、明治時代末年には1500種類以上もの菊が栽培されました。栽培された菊は、江戸で流行した「江戸菊」(中菊とも呼ばれた)で、秋にはさまざまな菊が咲きほこりました。また、同家の菊は一般にも公開され、秋におこなわれた観菊会には多くの人びとが川和の地を訪れました。

「松林甫」の菊は全国的にも有名で、明治14(1881)年には皇室に菊を献上しています。また、「松林甫」の観菊会には著名人が相次いで訪れ、明治35(1902)年11月21日に発行された「横浜新報」は、大隈重信や松方正義、宮内大臣をつとめた土方久元、第2代韓国統監に就任する曽根荒助らが川和にやってきたと伝えています。さらに、中山家に残された写真アルバムには相次いで神奈川県知事をつとめた周布公平や有吉忠一も写されています。「松林甫」は政治家たちの憩いの場所だったのかもしれません。

  • 旧館1階記念ホールにおいても、第33回全国緑化よこはまフェアに協賛してペリー来航時のプラントハンターの活躍を紹介したミニパネル展示を開催します。
「松林甫」で開催された観菊会会場の光景 中山恒三郎家蔵
「松林甫」で開催された観菊会会場の光景 中山恒三郎家蔵

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