横浜開港資料館

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What's New「ミニ展示コーナー」

2019年度

享保期、横浜村の村びとと土地

会期:1月4日(土)〜4月1日(水)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

開港前の関内地区が戸数100戸ばかりの小ぶりな村(横浜村)だったことはよく知られていますが、その具体的な様相は村に関わる古文書が失われていることからよくわかっていませんでした。ところが、当館が新たに入手した巻物のなかに、享保19年(1734)2月14日という古い年紀をもつ横浜村にかかわる古文書が含まれていました。今回のミニ展示では、この古文書を初公開するとともに、周辺の資料から江戸時代の横浜村の一端を紹介します。

本牧の勝兵衛が横浜村の田を入手する文書 享保19年(1734)2月14日 当館蔵
横浜村内にある「下田壱反三畝四歩」を「敷金金子拾三両」(約130万円)と引きかえに本牧の勝兵衛に譲ることを認める証文。田んぼの持ち主である横浜村の清兵衛のほか、4名の村びとが連署しており、江戸時代なかばの横浜村の村びとの名前が判明するのも興味深い。
本牧の勝兵衛が横浜村の田を入手する文書 享保19年(1734)2月14日 当館蔵

関東大震災以前の姿を伝える「横浜歴史イロハカルタ」

会期:11月1日(金)〜12月27日(金)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー

明治後期から、郷土の自然や生活・文化に教材を求め、郷土への愛情と理解を育成することを目標とした「郷土教育」が行なわれるようになりました。昭和初期には、児童の教化を目的として全国の小学校や新聞社・出版社などが、市町村を単位として「郷土かるた」を作りました。ここに紹介する「横浜歴史イロハカルタ」もその一つです。1922(大正11)年に翌年の正月に向けて、ある新聞社から子供新聞の付録として発行されました。現在確認される、最初の「郷土かるた」だということです。かるたは七五調で、いろは47文字に、「京浜」の「京」の文字を加えた48枚の札で構成されています。

2019年は、横浜開港から160年を迎えます。かるたが作られた頃にも、子どもたちには横浜開港の歴史が伝えられました。横浜開港資料館中庭の玉楠を描いた「ペルリノ記念ニ茂ル楠木」や「開港五十年」(1909年)の際に作曲された「横浜市歌」の歌詞(森鴎外作詞)が書かれた札が見られます。そして、「英一番ハ居留ノ魁」などの札では、外国との交流を描いています。このかるたは、子どもたちに郷土横浜の歴史や文化について物語るとともに、震災前の街並みや暮らしを、今に伝える資料でもあります。

ここでは、かるたと札の内容にちなんだ資料を紹介します。

横浜歴史イロハカルタ(横浜開港資料館所蔵)
横浜歴史イロハカルタ(横浜開港資料館所蔵)

関東大震災96周年
奮闘!消防自動車メリーウェザー号

【会期】2019(令和元)年9月1日(日)〜10月31日(木)
【会場】横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、神奈川県を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生、激しい揺れが横浜の街を襲います。ちょうど昼時だったこともあり、289ヶ所から出火、強風に煽られて急速に燃え広がっていきました。そうしたなか、山下町238番地で消火活動に尽力する1台の消防車がありました。日本初のガソリンポンプ自動車、「メリーウェザー号」です。

メリーウェザー号を格納していた第二消防署(旧薩摩町消防隊、現在の横浜市中消防署)は、地震発生とともに倒潰、消火器具も瓦礫の中に埋もれてしまいました。その後、難を逃れた署員たちがメリーウェザー号を救出、火災にたちむかっていきます。署員たちは水源を第二消防署内の井戸に求め、その周囲で消火活動を展開していきました。しかし、火勢が強まるなか、1台の消防車では対処できず、生命の危険も迫ったため、署員たちはメリーウェザー号を残して避難します。最終的にメリーウェザー号は消防署とともに炎に包まれました。

今回は大正期の横浜消防の象徴であったメリーウェザー号の導入から最期の姿までをご紹介します。

ガソリンポンプ自動車・メリーウェザー号 大正期 石橋サク子家資料 当館保管
 メリーウェザー号を囲む薩摩町消防隊の隊員。運転席に座るのは、後に加賀町消防団の初代団長となる増田清、中央の外国人は機関士(消防ポンプ運用の専門家)のジョージ・ガバレッタ。薩摩町消防隊(旧居留地消防隊)は、1914(大正3)年3月の東京大正博覧会で出品されたイギリス製の消防自動車を購入、同年6月1日には、山下町内で運用試験を実施した。
ガソリンポンプ自動車・メリーウェザー号 大正期 石橋サク子家資料 当館保管
焼失したメリーウェザー号 岡本三朗撮影 1923(大正12)年9月 当館蔵
 火災鎮火後の第二消防署(現・横浜情報文化センター駐車場)の状況。メリーウェザー号の残骸と倒れた望楼、崩れたレンガなどが確認できる。車体後方のポンプから伸びるホースは署員たちの奮闘を物語っている。関東大震災では、当時、横浜市内にあった7台のガソリンポンプ自動車中3台(メリーウェザー号以外にラフランス製消防自動車1台、レオーノーザン製消防自動車1台)が失われた。
焼失したメリーウェザー号 岡本三朗撮影 1923(大正12)年9月 当館蔵

ラグビーと幕末・明治の横浜

会期:7月3日(水)〜8月31日(土)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー

来る9月に開幕するラグビーワールドカップ日本大会の決勝戦は横浜でおこなわれますが、横浜とラグビーとのつながりは、幕末までさかのぼることができます。

1866年1月26日(慶応元年12月10日)、横浜外国人居留地の一角(現・中区山下町127番地)で、横浜在住のイギリス人や、当時、横浜に駐屯していたイギリス陸軍の士官たちが中心となり、横浜フットボールクラブ(Yokohama Foot Ball Club)が設立されました。当時のフットボールというスポーツは、ラグビーとサッカーとが未分化のスポーツであり、プレーのようすはわかっていません。

クラブ設立から8年後の1874(明治7)年、ロンドンの雑誌に「横浜でおこなわれたフットボールの試合」というタイトルの絵が掲載されました。描かれたのは、前年の73年12月に横浜公園でおこなわれた試合だと考えられており、クラブのフラッグも見えます。そして、この絵から、今日のラグビーに近い試合だったことがわかります。

図1 「日本の横浜でおこなわれたフットボールの試合」
『ザ・グラフィック』The Graphic 1874 (明治7)年4月18日号掲載 当館蔵
図1 「日本の横浜でおこなわれたフットボールの試合」 『ザ・グラフィック』The Graphic  1874 (明治7)年4月18日号掲載 当館蔵

神奈川開港

会期:5月1日(水)〜6月30日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

160年前の安政6年(1859)6月2日、横浜は開港しました。よく知られているように、修好通商条約では「神奈川」の開港が定められており、開港直前の2月段階でもアメリカ総領事ハリスは神奈川宿(現神奈川区)付近を開港場とすることを主張していました。日本側は横浜村に開港場を建設するものの、欧米諸国が開港当初に外国公館(領事館)を置いたのは神奈川でした。今回のミニ展示では、開港前後の「神奈川」のようすをあらわした資料を展示します。

「五ヶ国御貿易場」安政6年(1859)当館蔵
開港前後の開港場の情報を記した摺物。縦に細かく折れ線が入っていることから、実際に扇に貼られて使用されたものと思われる。資料下部の地図には手前(下)に神奈川宿が、中央には横浜の日本人町が描かれる。神奈川宿が大きく描かれるのは、外国人居留地が神奈川に置かれる可能性も考慮したのであろう。右は拡大図。
「五ヶ国御貿易場」安政6年(1859)当館蔵
「五ヶ国御貿易場」拡大図
「五ヶ国御貿易場」拡大図

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