横浜開港資料館

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What's New「ミニ展示コーナー」

2016年度「特別資料コーナー」

ヘボンの和英辞書出版150年

会期:2月11日(土)〜3月26日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階特別資料コーナー

今年、日本最初の和英辞書『和英語林集成』が出版されて150年となります。編集者のアメリカ人医師ヘボン(1815−1911)は、1859(安政6)年10月、横浜開港のわずか3カ月後に来日しました。医療活動を通じてキリスト教を広める宣教医として派遣されてきたのですが、当時、日本人への布教は許されていなかったため、治療や医学を教えながら、将来に備えて日本語の研究に励みました。辞書はその成果なのです。

辞書は来日8年後の1867(慶応3)年5月、横浜で販売されましたが、印刷は上海で行いました。ヘボンは66年10月、上海に渡り、印刷所では日本語の活字を一から鋳造することから始まりました。当初は「和英」だけでしたが、「英和」編も加えることになったりもして、7カ月間かかりました。

辞書は外国人だけでなく多くの日本人も買い求め、明治末までに9版を重ね、偽版も出た程でした。今日、最もポピュラーな日本語のローマ字表記は、この辞書(第3版)で使われた「ヘボン式ローマ字」です。

ヘボン兄弟 高谷道男氏寄贈 当館蔵
右がヘボン、左が弟のスレーター。
ヘボンが33年間に及ぶ日本での生活を終えて、
帰国してから撮影された。
ヘボン兄弟 高谷道男氏寄贈 当館蔵
右がヘボン、左が弟のスレーター。ヘボンが33年間に及ぶ日本での生活を終えて、帰国してから撮影された。
ヘボンから弟スレーターへの手紙
1865年8月10日付、横浜
高谷道男氏寄贈 当館蔵
ヘボンから弟スレーターへの手紙 1865年8月10日付、横浜 高谷道男氏寄贈 当館蔵

横浜港から出航−女学生の修学旅行

会期:11月2日(水)〜30日(水)
会場:横浜開港資料館新館2階特別資料コーナー

秋の修学旅行シーズンです。昭和初年の女学生たちは、横浜港から外国航路を航行する客船に乗って修学旅行に向かいました。神奈川県立高等女学校(同県立横浜第一高等女学校と改称、現在は同県立横浜平沼高等学校)の関西修学旅行は、伊勢神宮・明治天皇陵を参拝し、関西の名所旧跡をめぐって知識を広め、精神を養い、身体を鍛錬する目的で行なわれました。旅行には5年生が参加し、昭和7(1932)年度からは客船に乗りました。横浜市立高等女学校(現在は横浜市立桜丘高等学校)でも、4年生が関西修学旅行を行ない、客船で神戸へと向かいました。両校ともほぼ同様の場所を訪れ、鉄道で横浜に帰着しました。かなり盛りだくさんの内容です。このコーナーでは、女学生の修学旅行に関する資料を紹介します。

関西修学旅行への出航風景
『花橘』41号(神奈川県立横浜第一高等女学校校友会 昭和7年)より 当館所蔵
関西修学旅行への出航風景 『花橘』41号(神奈川県立横浜第一高等女学校校友会 昭和7年)より 当館所蔵

関東大震災93周年 洋画家が描いた関東大震災

会期:9月1日(木)〜9月30日(金)
会場:横浜開港資料館新館2階 特別資料コーナー

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、神奈川県東部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生、激しい震動が横浜市を襲いました。その後、市内289ヶ所から出火、市街地の大部分を焼き払うとともに、最終的な犠牲者の数は約26,000人にのぼりました。

そうした状況を描いた一人の洋画家がいました。元街小学校(現・中区)で教師をしていた八木彩霞(本名・熊次郎)です。元町の理髪店で被災した八木は、元街小学校に戻った後、青木町字上反町(現・神奈川区)の自宅をめざします。その後、家族と再会した八木は、被災地で苦しい生活をおくり、最終的には、郷里の愛媛県松山に避難していきました。今回は八木の震災体験を残されたスケッチなどから紹介します。

元街小学校の焼け跡と八木彩霞 1924(大正13)年2月
八木洋美家文書 「関東地方大震災大火災写真」所収 当館保管(寄託)

地震発生から5ヶ月後の山手(現・中区)の状況。がれきの上に座るのが八木彩霞である。八木は丘の下の山下町について、「関東地方大震災大火災写真」(アルバム)に「未だ震災当時と大差なく殆ど連日死屍を掘出され居れり」と書き記している。被災地のがれき撤去は停滞していた。
元街小学校の焼け跡と八木彩霞 1924(大正13)年2月 八木洋美家文書 「関東地方大震災大火災写真」所収 当館保管(寄託)
地震発生時の様子 1923(大正12)年9月
八木洋美家文書 「大正十二年九月 関東地方大震災画録」所収 当館保管(寄託)

八木彩霞の描いた「関東地方大震災画録」には、地震発生当日の行動が9枚のスケッチによって記録されている。正午前、八木が理髪店の奥座敷で昼食を食べようとしたところ、遠雷のような響きとともに、大きな揺れが発生した。驚いた八木は両手で鴨居と柱を支えている。壁の崩落や箪笥(たんす)の転倒など、揺れの大きさがうかがえる。
地震発生時の様子 1923(大正12)年9月 八木洋美家文書 「大正十二年九月 関東地方大震災画録」所収 当館保管(寄託)

オリンピックに行った横浜の郷土史家 栗原清一

会期:8月5日(金)〜8月31日(水)
会場:横浜開港資料館新館2階 特別資料コーナー

栗原清一(くりはら せいいち、1882〜1944年)は、野毛の薬種商の長男として生まれ、医師となり、大正9(1920)年、横浜市中区常磐町に栗原脳神経脊髄科院を開業した。医師を務めるかたわら、横浜の歴史資料の収集と調査にも力を入れ、郷土史関係の書籍の出版や、史蹟巡りの実施など、郷土史の普及に尽力した。一方関東大震災後には、横浜野球協会の理事長に、昭和6(1931)年には横浜市体育協会常務理事にも就任し、横浜のスポーツ振興にも貢献した。昭和11(1936)年、ベルリンで第11回夏季オリンピックが開催されたが、横浜市体育協会の関係であろう、栗原もベルリンに赴いた。ここでは、当館所蔵の栗原清一関係資料から、栗原がベルリンから持ち帰った資料や横浜野球協会関係資料などを紹介する。

栗原清一肖像写真
当館所蔵「栗原清一関係資料」
栗原清一肖像写真 当館所蔵「栗原清一関係資料」
ベルリン・オリンピック開会式の写真
当館所蔵「栗原清一関係資料」
ベルリン・オリンピック開会式の写真 当館所蔵「栗原清一関係資料」

海外に広がる日本の花火

会期:7月1日(金)〜8月3日(水)
会場:横浜開港資料館新館2階 特別資料コーナー

花火の季節がめぐってきました。幾重にも丸く広がる日本の花火は、海外でも人気がありますが、明治時代から外国の空を彩ってきました。

横浜では明治13(1880)年頃から、平山煙火製造所が欧米に向けて花火の輸出を始めました。同所は明治37(1904)年に開催されたセントルイス万国博覧会や、大正4(1915)年にサンフランシスコで行われたパナマ太平洋博覧会で金メダルを受賞するなど、海外でも高く評価されています。東京でも、両国川開きの花火で名高い鍵屋が、外国に向けた花火を製造・販売し、横浜からも輸出されていたようです。

このコーナーでは、海外に広がった日本の花火に関する資料を紹介します。

パナマ太平洋万国博覧会の展示品
『巴奈馬太平洋萬国博覧会 神奈川県出品協会事務報告』大正5年より 当館所蔵
パナマ太平洋万国博覧会の展示品『巴奈馬太平洋萬国博覧会 神奈川県出品協会事務報告』大正5年より 当館所蔵
スターマイン(鍵屋のカタログより)
Catalogue of the Y.Kagiya's Fireworks Factory 小野哲男氏寄託(当館保管)
スターマイン(鍵屋のカタログより) Catalogue of the Y.Kagiya's Fireworks Factory 小野哲男氏寄託(当館保管)

瓦版にみる嘉永6年ペリー来航

会期:6月1日(水)〜6月30日(木)
会場:横浜開港資料館新館2階 特別資料コーナー

今から163年前の嘉永6年(1853)6月3日、開国を求めたアメリカ大統領の親書を携えて、ペリー艦隊が浦賀沖に来航しました。同月9日にペリーは久里浜に上陸して国書を渡すとともに、その回答を求めて明年に来航することを約して、12日に退去します。

翌年の嘉永7年=安政元年(1854)に再び来航したペリーとの間で、横浜で交渉が行われ、日米和親条約が締結され、日本は開国することになります。その後、安政5年(1858)にはアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5か国との間で修好通商条約が結ばれ、翌安政6年(1859)6月2日に横浜が開港しました。

今回の展示では、こうした開国・開港の始まりとなった嘉永6年における第1回ペリー来航の様子を、当時作成された瓦版によって紹介します。

合衆国水師提督口上書 当館所蔵
中央に「水師提督」の「ペルリ」、左に「副使」「アハダムス」、右に「軍師」「アナン」というように、嘉永6年(1853)の第1回来航時におけるペリー艦隊の首脳部の人物画を描いたもの。
合衆国水師提督口上書 当館所蔵 中央に「水師提督」の「ペルリ」、左に「副使」「アハダムス」、右に「軍師」「アナン」というように、嘉永6年(1853)の第1回来航時におけるペリー艦隊の首脳部の人物画を描いたもの。

横浜大空襲関連展示 空襲に備えよ!警防団の誕生

会期:5月14日(土)〜5月31日(火)
会場:横浜開港資料館新館2階 特別資料コーナー

1945(昭和20)年5月29日朝、約500機のB-29戦略爆撃機と約100機のP-51戦闘機が横浜を襲い、市街地の大部分は焼夷弾によって焼き払われました。そうしたなか、火の粉の降る街で消火活動や避難誘導にあたった人びとがいました。警防団(けいぼうだん)です。警防団は空襲だけでなく、火災や水害、地震などの災害にも備える組織でした。各地域にあった消防組(市町村単位で設置される消防組織)や防護団(空襲に備える民間団体)は1939(昭和14)年1月24日制定の警防団令に基づき警防団に生まれ変わります。今回は中山浩二郎家文書(都筑区川和)の「警防団関係綴」を中心に警防団誕生の一端を紹介します。

図1 警防団関係綴 1939(昭和14)年 中山浩二郎家文書 横浜開港資料館所蔵
川和警防団長・中山幸三郎がまとめた書類綴り。警防団結成関係の書類や川和警察署からの指示、防空訓練の実施計画などが収められており、警防団の活動実態がうかがえる。
図1 警防団関係綴 1939(昭和14)年 中山浩二郎家文書 横浜開港資料館所蔵
図2 野澤屋洋服部の広告 1939(昭和14)年8月 中山浩二郎家文書 横浜開港資料館所蔵 複製
中区伊勢佐木町にあった百貨店・野澤屋が出した警防団服に関する広告。警防団員の服装がわかる。案内文では、野澤屋での警防団服の購入を求めている。国家政策に基づく組織の改変は洋服店の商機につながった。
図2 野澤屋洋服部の広告 1939(昭和14)年8月 中山浩二郎家文書 横浜開港資料館所蔵 複製

シドモアを魅了した、明治横浜の桜

会期:2016年3月30日(水)〜5月8日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階・特別資料コーナー

エリザ・R・シドモア(Scidmore, Eliza Ruhamah, 1856-1928)は、明治の末に日本の桜をポトマック河畔に移植したことで知られる文筆家・地理学者です。今年は、1991年にワシントンのポトマック河畔の桜が横浜に里帰りし、山手の外国人墓地のシドモアの墓に植樹されてから、25周年となります。それを記念し、明治の横浜の桜風景の写真数点とシドモアの原著を展示します。

シドモアがいた頃の横浜は、日本における写真製作のメッカでした。現代の私たちは、古写真の中にシドモアを魅了した、明治の横浜の桜を愛でることができるのです。古写真に見る、明治の花見にお越し下さい。

野毛山の花見 1900年頃 横浜開港資料館所蔵
桜のトンネルの下、和服の女性たちが茶店に腰かけている。桜のピンクや緋毛氈の赤が鮮やかだが、これはカラー写真ではなく、モノクロ写真に日本絵の具で手彩色したものだ。制作の拠点であったことから「横浜写真」とも呼ばれる。
野毛山の花見 1900年頃 横浜開港資料館所蔵
Jinrikisha Days in Japan, Harper:New York, 1891 当館ブルーム文庫
シドモアは1884年、横浜の米国総領事館に勤務する兄を訪ねて初来日した。それ以来、何度も日本を訪れ、その見聞をまとめたのが、本書(邦訳『日本人力車旅情』)である。これは1891年に刊行された初版本で、表紙見返しにシドモア直筆のサインがある。
Jinrikisha Days in Japan, Harper:New York, 1891 当館ブルーム文庫

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