横浜開港資料館

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What's New「ミニ展示コーナー」

2020年度

「日本の灯台の父」R・H・ブラントン(Richard Henry Brunton)の旧蔵資料

会期:3月6日(土)〜5月30日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー

昨年2020年、国内で初めて、次の現役灯台4基(竣工年順)が、国の重要文化財(建造物)に指定されました。

  1. 六連島(むつれしま)灯台 1871(明治4)年竣工、石造、下関市六連島所在
  2. 部埼(へさき)灯台 1872(明治5)年竣工、石造、北九州市門司区部埼所在
  3. 犬吠埼(いぬぼうさき)灯台 1874(明治7)年竣工、レンガ造、銚子市犬吠埼所在
  4. 角島(つのしま)灯台 1875(明治8)年竣工、石造、下関市角島所在

この4基の灯台の築造を主導したのが、スコットランド生まれのイギリス人土木技師、R・H・ブラントン(1841〜1901)です。今年は、ちょうど生誕180年・没後120年にあたります。ブラントンは、日本政府に雇われて、1868(慶応4・明治元)年に来日し、76(明治9)年に帰国するまでの8年間、おもに灯台築造に携わりました。手がけた、いわゆる灯台は26基を数え、そのほとんどが現役です。

当館は、ご子孫から「ブラントン旧蔵資料」の寄託を受け、保管しています。今回、その一部を紹介します。

なお、展示した各灯台の美しい写真は、下関市教育委員会・北九州市文化企画課・銚子市教育委員会から提供を受けました。記して、感謝申し上げます。

図1 ブラントン肖像写真
1860年代
図1 ブラントン肖像写真 1860年代
図2 ブラントン愛用の灯台視察船テーボル号(Thabor)
落合素江画 1870(明治3)年頃
図2 ブラントン愛用の灯台視察船テーボル号(<i>Thabor</i>) 落合素江画 1870(明治3)年頃

図版2点は、E.M.ウォーホップ(Wauchope)氏寄託・当館保管「ブラントン旧蔵資料」より

明治の郷土開発史

【会期】2020(令和2)年12月5日(土)〜2021(令和3)3月4日(木)
【会場】横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

このたび内田憲一家文書が当館に寄贈されました。同家文書は6点のみですが、そこからは明治期の土地開発によって変貌していく農村の姿を読み取ることができます。

江戸時代、内田家は相模国鎌倉郡長沼村(のち豊田村 現在の横浜市栄区長沼町)の村役人を務めていました。1841(天保12)年に成立した江戸幕府編纂の地誌『新編相模国風土記稿』によれば、長沼村は33戸、東西5町余(約545m)、南北6町余(約654m)にわたり、西境には柏尾川が流れ、東海道戸塚宿から鎌倉へと至る道(鎌倉往還 現在の県道203号 大船停車場矢部線)が貫通する交通・物流の要衝でした。明治期になると、政府の殖産興業政策として道路・鉄道の敷設が進み、水害対策として河川の拡幅と堤防の改修が行われるなど、村の景観は移り変わっていきます。

今回のミニ展示では明治期における鎌倉往還・柏尾川の整備について、内田憲一家文書を通じて紹介します。

図1 神奈川県鎌倉郡戸塚町豊田村長尾村本郷村連合耕地整理図 1910(明治43)年5月7日 当館蔵(内田憲一家文書)
柏尾川流域の耕地整理にともない作成された図面。たび重なる柏尾川の氾濫に悩まされていた流域の町村は河川改修を目的とする耕地整理を計画、1910(明治43)年に工事を終えた。この整理図からは短冊形に整然と区画された柏尾川沿いの耕地、鎌倉往還や東海道線の様子を読み取ることができる。
図1 神奈川県鎌倉郡戸塚町豊田村長尾村本郷村連合耕地整理図 1910(明治43)年5月7日 当館蔵(内田憲一家文書)
図2 柏尾川の現況 2020(令和2)年11月1日撮影
図2 柏尾川の現況 2020(令和2)年11月1日撮影

関東大震災97周年 少年・佐藤謙三の震災体験

【会期】2020(令和2)年9月1日(火)〜12月3日(木)
【会場】横浜開港資料館新館2階 ミニ展示コーナー

日々の出来事をつづった日記は、過去の事象を知る重要な手がかりになります。1923(大正12)年9月、後に国文学者として大成し、國學院大學の学長を務める佐藤謙三は、自宅のある橘樹郡保土ケ谷町(現・横浜市保土ケ谷区)で関東大震災に遭遇しました。当時12歳の謙三は神奈川県立横浜第二中学校(現・翠嵐高等学校)の1年生で、日記や回想にその時の様子を記しています。こうした謙三の記録からは、大きな被害を受けた保土ケ谷町の状況がうかがえます。今回は日記を中心に謙三の震災体験を紹介していきます。

佐藤謙三の日記 大正期 脇屋まり氏蔵
佐藤謙三は自らの震災体験を複数の日記に書き記している。国民書院発行『大正十二年 学生日記』には、地震発生以降の日々の様子が記されているほか、9月、10月、11月、12月の月末にはそれぞれの月の感想があり、復興の様子もうかがえる。また、1923(大正12)年10月10日に記された「震災の思い出」は、地震発生から約1週間の状況を回顧しており、緊迫した状況を現在に伝えている。さらに翌24年の博文館発行『大正十三年 当用日記』、日本女性教育研究会発行『暑中休暇日誌』には、震災1周年の街の様子が記録されている。これらの日記を読み解くことで、1人の少年の震災体験が浮かび上がってくる。
佐藤謙三の日記 大正期 脇屋まり氏蔵

2つの横浜貿易新報社

会期:6月2日(火)〜8月30日(日)
会場:横浜開港資料館新館2階ミニ展示コーナー

桜木町駅から大岡川をのぞんだ対岸に、かつて横浜貿易新報社が建っていました。現在横浜市新市庁舎が建つ一角です。同紙は、今年創刊130年をむかえた『神奈川新聞』につながる新聞の一つで、神奈川県の有力紙でした。

社屋は、1923(大正12)年当時最新の技術である、鉄筋コンクリート・鉄筋ブロック4階建でした。3月の紙面では、落成式と披露招待会の模様を、数日にわたり賑やかに伝えています。横浜貿易商組合の機関紙『横浜貿易新聞』として1890(明治23)年2月に創刊してから、34年目のことでした。しかし、同社の最盛期を象徴する社屋は、わずか半年後に関東大震災で倒壊しました。けれども、同社は9月13日から臨時号を発行し、翌年1月26日に復刊をはたします。1927(昭和2)年には、本町通りに面した旧社屋の場所に社屋を新築するまでに復興しました。

ここでは、震災前後の2つの横浜貿易新報社の資料を紹介します。

図1:1923年の横浜貿易新報社(横浜開港資料館所蔵)
図1:1923年の横浜貿易新報社(横浜開港資料館所蔵)
図2:1927年の横浜貿易新報社(椎野佳宏氏所蔵)
図2:1927年の横浜貿易新報社(椎野佳宏氏所蔵)

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