ふただび来日したペリー艦隊は、1月16日にまず現在の金沢区柴の沖合にいかりをおろしました。
浦賀で、会談の場所について話し合われました。
幕府は鎌倉や浦賀などの、江戸から離れた場所を提案しました。
しかしアメリカ側は、江戸に近い場所で会談することを強く希望し、神奈川沖まで艦隊を進めて、日本側に圧力をかけました。
そこで幕府は、神奈川沖に近い横浜での会談を提案し、アメリカ側もこれに同意しました。横浜は水深が深く、船が泊めやすい場所でした。ペリーは艦隊を本牧・横浜沖にすすめました。
嘉永7年2月10日(1854年3月8日)、約500人の水兵たちをしたがえて、ペリーが横浜に初上陸します。
上陸地点は、現在の日本大通りと海岸通りとが交差する付近と考えられます。現在「開港資料館前」という交差点になっています。