ペリー艦隊がやってきた時に警備にあたった武士たちです。
日本を開国することに対するペリーの考えがわからず、艦隊と戦争になることも考えて、幕府は沿岸地域を警備しました。その一方で、交渉が順調におこなわれるようにする必要もありました。
警備には2つの目的があったのです。
左の建物には幕府のえらい役人が、ペリーたちの到着をまっていました。
【東京湾を警備する大名たち】
ペリーが来た時に出された瓦版(江戸時代の新聞)です。右下にペリーが乗ってきた黒船が、上の部分に警備を命じられた大名のなまえがのせられています。横浜にちかい本牧の警備にあたったのは、鳥取の松平家で、徳川幕府と関係がふかい大名が警備にあたりました。
【横浜村の警備】
横浜村を警備した武士を描いた絵です。ペリー艦隊に乗ってきた画家が描きました。当時の日本の馬は、現在の馬よりもずっとからだが小さかったことがわかかります。
【ペリーとの交渉にあたった幕府の役人】
幕府は、ペリーと交渉するため5人の幕府の役人と通訳を横浜に派遣しました。交渉はたがいにしゃべることができたオランダ語をつかっておこなわれました。通訳の森山多吉郎と立石得十郎は、長崎でオランダ語を勉強し、アメリカとの交渉で活躍しました。この絵は艦隊乗組員のブラウンが撮影した写真をもとに描かれました。