嘉永7年2月10日(1954年3月8日)、日本の開国をすすめるため、ペリーは将兵500名とともに、横浜に上陸しました。その光景を描いた絵には、「楽人」、つまり音楽隊が描かれています。
このとき演奏された曲は、現在のアメリカ国歌である「星条旗」と、「ヘイルコロンビア」という曲でした。ペリーと幕府役人とは、横浜に作られた応接所(会場)で最初の交渉にのぞみましたが、その議題となったのが、船内で死去した艦隊員ロバート・ウィリアムス(24歳)の遺体の埋葬でした。遺体は元町のお寺に埋葬されることとなります。
翌日、葬式が行われました。海岸からお寺にむかう道のり、死者を悼んで演奏されたのは、「ハレルヤ・コーラス」で有名な作曲家ジョージ・フレデリック・ヘンデル(1685-1759)のオラトリオ「サウル」のなかの長調でつくられた「葬送行進曲」でした。
日米和親条約の見通しがついたペリー一行は、2月29日(西暦3月27日)にポーハタン号に幕府役人を招きます。食事のあと、当時アメリカで楽しまれていた「ミンストレル・ショー」が開かれました。
「ミンストレル・ショー」とは顔や手を黒く塗って白人が黒人に扮装して、黒人なまりで歌ったり踊ったり、芸をみせたりするものでした。このショーで歌われた歌には、「草競馬」「オールド・ブラック・ジョー」などで有名なスティーブン・コリンズ・フォスター(1826年〜1864年)の、「主人は冷たい土の中」「アンクル・ネッド」などがありました。