ペリーは、本名を、マシュー・カルブレース・ペリーといいます。1794年にアメリカで生まれました。
父親や兄と同じ海軍に入り、近代的な科学技術を利用した軍艦の建造に力を注ぎ、1837年にはアメリカ初の蒸気軍艦の艦長になり、「蒸気鑑の父」と呼ばれました。
フィルモア大統領によって、ペリーは東インド艦隊司令長官に任命され、日本に開国を呼びかける役目もまかされました。日本に開国をもとめるためにペリーが派遣されたことが、当時ロンドンで発行された『絵入りロンドン・ニュース』にも書かれています。
嘉永6(1853)年、ペリーひきいるサスケハナ号、ミシシッピ号、プリマス号、サラトガ号の4艘の軍艦は浦賀(いまの横須賀市)の沖に船をとめました。久里浜に上陸し、応接所で大統領からの手紙を日本側に渡して、よく年にもう一度来ることを約束して、中国に戻りました。
翌安政元年(1854年)に再来日し、横浜の応接所で幕府の役人と交渉して、日米和親条約を結びました。
ペリー艦隊には、記録のための画家や植物学者、天文学者など様々な人が乗っていました。ペリーが日本で調べた様々な記録は、『ペリー提督日本遠征記』という本にまとめられています。その本は、ペリー艦隊の日本遠征を書いているばかりでなく、鳥や動植物、航海上のめじるしとなる星のうごきなども記録されています。
日本でも、開国のとびらを開いたペリーの顔は、多くの瓦版に残されましたが、その多くは、好奇心をかき立てる目的でつくられたものでした。
ペリーは、1855年にアメリカに戻り、1858年、ニューヨークで亡くなりました。63歳でした。