横浜開港資料館

HOME > 閲覧室でご覧になれる資料 > 諸家文書 > や行〈1〉

閲覧室でご覧になれる資料「書家文書」

【や行】

八木洋美家文書 (寄託)

【解説】大正時代に元町小学校(現中区)の教員を務めた八木彩霞の関係資料。彩霞は小学校を辞めた後、パリへ留学し、帰国後、洋画家として活躍した。教員時代に関東大震災に遭遇し、その後、当時を回想した日記と被害状況を描いた絵を残した。また、震災に関する出版物を収集した。これらの資料に加えて、開港当時の横浜の想像図や1918(大正7)年当時の横浜を描いた絵が含まれている。
【寄託者】八木洋美
【総数】32点
【年代】1923(大正12)年〜1926年
【閲覧】原資料
【検索】「八木洋美家文書目録」

安田茂家文書 (寄託)

【解説】江戸時代後期に久良岐郡洲崎村(現金沢区)の村役人、明治初年に同村の村用掛や戸長を務めた安田家の文書記録類。洲崎村の戸長役場文書を多く含み、明治初年の洲崎村の様子を具体的に知ることができる。
【寄託者】安田茂
【総数】約 550点
【年代】1754(宝暦4)年〜1934(昭和9)年
【閲覧】原資料
【検索】「安田茂家所蔵文書目録」(『横浜市史料所在目録 2』)

矢部又吉関係資料〔2016.12.1公開〕

【解説】横浜出身の建築家矢部又吉(1888〜1941)に関する資料。矢部は工手学校(現・工学院大学)を卒業後、1906(明治39)年にドイツへ渡り、シャルロッテンブルク工科大学(現・ベルリン工科大学)で建築を学びながら、現場経験を積む。帰国後は、父矢部國太郎の跡を継いで建築事務所を開設し、川崎銀行横浜支店やストロング商会などの建物を横浜に残す。本資料は本人の肖像写真のほか、ドイツ留学時代や国内の建設工事現場の写真などからなり、東京の原宿にあった自邸の設計図面も含まれる。
【寄贈者】矢部文三
【総数】42点
【年代】1909(明治42)年頃〜1927(昭和2)年
【閲覧】複製本(文書151)
【検索】「矢部又吉関係資料目録」
【備考】堀勇良「矢部又吉」(『よこはま人物伝 歴史を彩った50人』横浜開港資料館編、神奈川新聞社かなしん出版、1995年)

山口正司家文書

【解説】山口家は、久良岐郡洲崎村(現金沢区)の旧家で、房総半島の館山(現千葉県館山市)を本拠地とした戦国大名里見氏が天正7(1579)年に発給した朱印状を所蔵している。この文書は山口越後守に与えられたもので、山口氏が里見氏の領国で自由に商売することを認めたものである。また、大山参詣のため、房総半島から旅人が洲崎村に多く渡海していたことを記した江戸時代の記録がある。
【原蔵者】山口正司
【総数】20点
【年代】1579(天正7)年〜1846(弘化3)年
【閲覧】複製本(Ca5-10.3)
【検索】「山口正司家所蔵文書目録」(『横浜市史料所在目録 2』)
【備考】阿部征寛「開国前、江戸湾内の船旅を巡って」(『紀要』4)

山十製糸株式会社文書

【解説】山十製糸は、山十組として1903(明治36)年小口村吉により長野県諏訪郡平野村に結成された。第一次大戦期を通じて事業は拡大し、全国第二位の製糸規模を誇ったが、昭和初期には事業が低迷、1931(昭和6)年昭栄製糸に引き継がれた。本資料は、山十製糸の破産管財人の弁護士小川清久の旧蔵文書であり、数量的には管財関係文書が主であるが、株式会社化した大正末期以降の営業報告書や重役会の記録、諸調査資料など、信州系製糸の雄であった山十の経営資料が含まれている。
【総数】935点
【年代】1912(明治45)年〜1942(昭和17)年
【閲覧】原資料
【検索】「山十製糸文書」(『横浜関係史料所在目録 3』)
【備考】海野福寿「山十製糸株式会社の経営」(『紀要』1)

このページのトップへ戻る▲