横浜開港資料館

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「開港のひろば」第103号
2009(平成21)年1月28日発行

表紙画像

企画展
横浜開港と宣教師−翻訳聖書の誕生−

ネイサン・ブラウンによる日本語聖書
右から『雅谷之書(やこぶのふみ)』(1875年)、『天毛天(てもて)・亭止(てと)・飛礼毛無(ぴれもん)』・『與波子仁安良波之太留與計無(よはねにあらはしたるよげん)』(1878年)
ネイサン・ブラウンによる日本語聖書
ネイサン・ブラウン肖像写真
ネイサン・ブラウン肖像写真

安政5(1858)年、幕府は日米修好通商条約を締結し、その第8条で、居留地に住む外国人の信教の自由と礼拝堂の建設を認めました。居留地以外の地での布教は認められなかったものの、布教の足がかりを得た欧米諸国のキリスト教各派は、日本への宣教師の派遣を決め、安政6(1859)年以降、次々と宣教師が来日します。

安政6年10月、長老派の宣教医ヘボンが、神奈川に上陸しました。二週間遅れてオランダ改革派宣教師S・R・ブラウンが来日します。翌年の4月にはバプテスト派ゴーブルが来日しました。彼らは、神奈川の成仏寺に住み、日本語の習得と伝道の基礎となる聖書の翻訳に取り組みます。

ヘボンの来日から約11年後の明治6(1873)年には、バプテスト派宣教師ネイサン・ブラウンも来日し、彼もまた聖書の翻訳に取りかかりました。

ゴーブルは明治4(1871)年に『摩太福音書』を刊行し、ヘボンとS・R・ブラウンは明治5(1872)年に共同で『新約聖書馬太伝』を刊行しました。

またネイサン・ブラウンは、明治8(1875)年に『馬(まる)可(こ)伝福音書』を刊行し、以後次々と新約聖書分冊本を刊行しました。そして明治13(1880)年には日本で最初の新約聖書『志無也久世無志與(しんやくぜんしょ)』を刊行します。

明治6年にはキリスト教禁令が解禁になり、宣教師たちはできあがった翻訳聖書を手に横浜から日本各地へ布教の旅に出ました。キリスト教は日本全国に広まります。

翻訳聖書の出版は、印刷技術や近代日本語に大きな影響を与えたといわれます。なかでもネイサン・ブラウンが聖書印刷のために設けたミッション・プレスでの印刷技術や、使用された連続活字、また彼の聖書に見られる平仮名分かち書きや句読点は、その後の日本の印刷技術や近代日本語に大きな影響を与えました。

ネイサン・ブラウンが刊行した初版本形式の聖書は17種19分冊あり、うち所在が確認されているものは13冊あります。横浜開港資料館では、そのうちの6冊を所蔵し、6冊のうちの3冊『雅谷之書(やこぶのふみ)』、『天毛天(てもて)・亭止(てと)・飛礼毛無(ぴれもん)』・『與波子仁安良波之太留與計無(よはねにあらはしたるよげん)』は、他に所在の確認されていない貴重なものです。

そこで本展示では、開港後横浜に来日した宣教師たちの活動を、ネイサン・ブラウンの聖書翻訳の活動を中心にたどり、当時の出版文化や世相を振り返ります。

(石崎康子)

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