横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第103号
2009(平成21)年1月28日発行

表紙画像

展示余話
公園・庭園・花やしき

植木商と花やしき

東花植木屋高名鏡
明治9(1876)年6月 横浜市中央図書館蔵
東花植木屋高名鏡

明治9(1876)年6月に発行された「東花植木屋高名鏡」は、東京・横浜の主要な植木屋を記した番付である。よく知られたところでは、現在もある遊園地「浅草花やしき」の基になった植木屋の森田六三郎が記されている。横浜では、以下の五人が掲載されている。
 野毛四時皆宜園(のげしじかいぎえん) 川本友吉
 石川町四丁目 岩月小三郎
 山元町 須田定次郎
 山元町 高橋源藏
 山元町 飯島秋三郎
 このうち、番付「世話人」の一人として、横浜植木商の別格に位置づけられているのが飯島秋三郎で、現在の埼玉県出身。元町増徳院の庭師であり、総元締めとしての「植木行事」の地位にあった。

野毛山に「四時皆宜園(しじかいぎえん)」を経営する川本友吉は、現在の愛知県出身。自身の花やしきにメーズ(迷路)をつくり、アミューズメント性を高めたことが知られている。また明治9年7月「四時皆宜園」の続き地で眺望にすぐれた場所に仮名垣魯文(かながきろぶん)が「窟螻蟻(くつろぎ)」と銘打った茶亭兼新聞縦覧所を設けた。メーズの設置自体が魯文の発意ともいわれており、川本と魯文を一体として考えた場合、「四時皆宜園」は植木屋が経営する花やしきを一歩すすめて遊園化したものととらえられよう。しかしながら川本は、森田六三郎のように日本の遊園地の歴史に名を残すことはなかった。

山元町・須田定次郎は、江戸出身の植木商である。こののち、パナマ帽製造に尽力している。

前号でも触れたように、幕末にヨーロッパで大流行した日本の花にユリがあった。当初は外国人に独占されていたユリ根輸出を日本人の手に取り戻すべく、ボーマー商会の仕入主任の経歴をもつ鈴木卯兵衛(すずきうへい)を中心に、明治23(1890)年から横浜植木商会が活動を始めた。飯島・川本・須田の植木商は、この横浜植木商会の役員として深い関わりをもった。岩月・高橋の二人は不明である。

元来、日本の植木商は草花とは無縁であり、花木をあつかう程度であった。日本人の庭園趣味は華美にながれることはなく、質実さが尊ばれた。ユリや花菖蒲などの華麗な花は、本来の植木屋の仕事に入ってこないものであったが、横浜の植木商はこれに積極的に取り組んだ。横浜は、植木商にもそれ相応の性格のちがいを付与したのであった。

日本横浜野毛老松町 植木商川本友吉 『横浜諸会社諸商店之図』 当館蔵
メーズはとりはらわれている。
日本横浜野毛老松町 植木商川本友吉『横浜諸会社諸商店之図』

(平野正裕)

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