横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第103号
2009(平成21)年1月28日発行

表紙画像

展示余話
公園・庭園・花やしき

「公園」と社寺境内

都市に居住する西洋人にとって、公園は不可欠の設備であった。狭い生活空間と切り離された公園(パブリック・ガーデン)で花と緑を楽しみ、憩いの場とする。しかし、江戸時代の日本には、誰もが憩うことのできる「公園」はほとんど発達しなかった。他方で「公園」にかわるものがあった。それは、寺院・神社の境内である。

明治6(1873)年1月の太政官布告によって、公園の法制化が始まるが、東京府は上野・芝・浅草・深川・飛鳥山の五公園の設置を禀申した。八代将軍徳川吉宗によって桜1,200余本が植えられ、花見の名所として設置された飛鳥山も飛鳥明神の分霊をまつった場所であり、これら公園はすべて社寺地の境内であった。

近代横浜の庶民が、もっとも気安く憩うことが出来た花の名所も、社寺地の境内にあった。伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)は桜の名所で、横浜の朝顔同好者らが自らの変わり咲き朝顔を持ち寄る場所であった。東海道の宿場近辺では神奈川の豊顕寺(ぶげんじ)があり、広大な境内は八重桜の名所でもあって、円錐形のコウヤマキは、開港後ここを訪れた、シーボルトやヴィーチ、フォーチュンらのプラントハンターも注目した。別所普門院の枝垂桜は、古木として著名。杉田妙法寺(みょうほうじ)の梅林は「杉田の梅」として江戸期以来の名所であり、紀行文「杉田日記」が残る。磯子の眞照寺の境内は秋に菊が開花して著名であった。

別所普門院の枝垂桜〔絵はがき〕当館蔵
桜の古木として著名であったが、関東大震災で倒れて枯れた。
別所普門院の枝垂桜〔絵はがき〕

明治3(1870)年6月山手公園は、妙香寺の境内であった場所を整備し、日本最初の西洋式公園として開園した。山手公園の開設に積極的な居留外国人の一人にウィリアム・H・スミスがいた。スミスは山手で養豚や西洋野菜を栽培して日本人に広めるかたわら、山手公園を運営する資金の調達のためにフラワーショーを開催している。また、『日新真事誌(にっしんしんじし)』明治5(1872)年10月18日にイギリス産バラの広告を出している。横浜の市花はバラであるが、横浜とバラの関係についての初めての資料と考えられる。

開園間もない山手公園
The Far East,1871.7.1 当館蔵
開園間もない山手公園

山手公園に次いで整備された横浜公園は、港崎(みよざき)遊廓が慶応2(1866)年の大火で焼失した跡地につくられた。開園は明治9(1876)年である。居留地と日本人街をわける日本大通に接続し、防火帯としての役割をあわせ持った。外国人・日本人ともに憩う場として、「彼我(ひが)公園」と呼ばれたが、桜や藤棚の名所として、横浜市民に愛される公共施設となった。

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