横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第103号
2009(平成21)年1月28日発行

表紙画像

企画展
神奈川宿 成仏寺のヘボンたち
−貴重な写真発見される!−

成仏寺の写真発見

では「神奈川のアメリカ・プロテスタント宣教師」と記された資料4は、どこで撮影された写真であろうか。写真の建物は、瓦葺であり、建物の入口左右にある柱をつなぐ頭貫とその上の装飾された挙鼻、頭貫の端の左右に木鼻の装飾があることから、寺院であると考えられる。そしてこの建物は、『明治学院五十年史』(鷲山弟三郎著 明治学院 1927年)に掲載されている「東神奈川の成仏寺」の建物と極めて類似している。資料4は成仏寺で撮影された写真であると考えてよいであろう。

写っている人物は、左から2人目、少女の肩に手をかける男性がS・R・ブラウン、左から4人目の人物がゴーブル、中央がヘボンである。またS・R・ブラウンが肩に手をかけている少女は、次女ハリエットであり、右から2人目の少年は、S・R・ブラウンの次男ハワードであろう。そして女性4人は、ヘボン夫人クララ、S・R・ブラウン夫人エリザベスと長女ジュリア、ゴーブル夫人エリザの4人であろう。なおゴーブルの娘ドリンダは、当時2才前後であるが、幼児の姿は写真には見られない。

資料4は、神奈川宿にあった成仏寺に住む宣教師へボン、S・R・ブラウン、ゴーブルとその家族9名を写した写真であると考えられる。現在まで成仏寺時代のヘボンら宣教師を写した写真は発見されておらず、資料4は、開港後神奈川港に上陸した宣教師たちを写した最初の写真として意義深い。

撮影者ジョン・ウィルソン

資料3・4を撮影したのは、ジョン・ウィルソンであると考えられている。彼は、1860年10月から1861年1月までのわずか3ヶ月間、プロイセン使節団にカメラマンとして日本で現地雇用され、使節団のために数多くの優れた写真を撮影した人物である(註1)。

ウィルソンの撮影と考える根拠は、資料3・4と同じシリーズと考えられる写真が、プロイセン資料館に所蔵されており、その写真をもとにした図版がドイツの雑誌Leipziger Illustrirte Zuitungに掲載されている。そこにジョン・ウィルソン撮影の写真を原画とする図版であると記されており、1連のシリーズがジョン・ウィルソンの撮影によるものであると考えられること(註2)。

また写真に写っているゴーブルの来日が1860年4月であり、翌1861年7月にはヘボン夫人が帰米し、同11月には、改革派の宣教師J・H・バラと夫人が来日し、ヘボン夫人不在の成仏寺に住み始めた。写真にはヘボン夫人が写っている可能性があり、バラ夫妻は写っていないことから、写真は1860年4月以降、1861年7月以前に撮影された写真であると考えられる。そしてその時期にウィルソンはプロイセン使節団の元で写真撮影を行っており、ウィルソンの撮影である可能性があることの2点があげられる。

資料3・4は、ウィルソンの撮影した写真であるとすると、彼がプロイセン使節団に雇用されていたわずか3ヶ月間に撮影された写真であると考えられ、撮影時期がかなり限定される。また資料4は、ヘボンらプロテスタント宣教師が住んだ成仏寺の写真であり、来日したヘボン、S・R・ブラウン、ゴーブルとその家族を写した最初の写真であることからも、このステレオ写真は、日本のキリスト教史にとっても、横浜の歴史にとっても、計り知れない価値のある資料である。資料3・4とも今回の企画展示「横浜開港と宣教師−翻訳聖書の誕生−」で初公開される。是非ご覧いただきたい。

註1 セバスティアン・ドブソン「ジョン・ウィルソン−新たな資料から解明された彼と仲間の写真家たち−」『日本写真芸術学会誌』平成19年度16巻1号
註2 同左‘The Prussian Mission to Japan and Its Photographic Activity in Nagasaki in 1861’と題した古写真研究国際カンファランス(長崎大学、2007年11月16日)での発表による

(石崎康子)

なお資料3と4は、昨年11月に開業100年を迎えられた渡邊戊申(わたなべぼしん)株式会社(渡邊淳取締役社長)からの寄付により購入した資料です。ご寄付を賜りました渡邊戊申株式会社に記して謝意を表します。

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