横浜開港資料館

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「開港のひろば」第103号
2009(平成21)年1月28日発行

表紙画像

展示余話
公園・庭園・花やしき

公園化した庭園「三渓園」

三渓園の大池ごしに鶴翔閣をのぞむ
〔絵はがき〕
明治後期〜大正期 当館蔵
鶴翔閣は明治35(1902)年建設の原家住宅。
三渓園の大池ごしに鶴翔閣をのぞむ〔絵はがき〕

日本の庭園は、公家・大名の私庭を中心に発展した。フランス・イタリアなどの貴族の庭園が、花や緑を幾何学的・人為的に配置するのに比較して、日本はいかに自然のありさまを庭園空間のなかに表現するかを重んじる。植える植物は樹木が中心で草花は乏しかった。

大名庭園のなかには、明治以後あらたに勃興した資本家や高級官僚らの所有に移るものがあり、さらにその後に、自治体に移管され公園化されたものが少なくない。

生糸貿易で栄えた横浜では、邸宅に庭園をしつらえる商人が少なくなかった。生糸商の小野光景(おのみつかげ)や、高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の庭園は著名であるが、原合名会社原富太郎の三渓園(さんけいえん)の右にでるものはないであろう。富太郎は経済界屈指の数寄者(すきもの)として声価が高かった。

三渓園は、明治39(1906)年5月に外苑部分が一般に開放されて、パブリック・ガーデン化した。富太郎38才、豪商の心意気であろう。富太郎自身、岐阜県の地主の子として生まれ、原家に入婿した身であり、創業者原善三郎も、現在の埼玉県の一生糸商を出自としていた。横浜という町がチャンスを与えなければ、一市民として生涯を終えていたかもしれぬ境遇が、私財で作った庭園を公開させる動機になったのかもしれない。

しかしながら、その一方で、生糸商原合名会社が地所部をもち、積極的に本牧の住宅地開発をおこなったことを忘れてはならない。明治44(1911)年、市街電車である横浜電気鉄道が、西ノ橋から本牧原まで延長された。富太郎は横浜電気鉄道の株主でもあった。本牧線の開通を待ったように、原合名会社地所部は本牧で開発した貸地貸屋を大々的に「横浜貿易新報」紙上にPRしはじめる。三渓園の公開は、原合名が経営する住宅地の付加価値を高める役割も果たしたのである。その後、本牧花屋敷・本牧演舞館が進出し、海水浴場も開かれ、本牧が栄えるきっかけとなった。

以上のような一面があるとはいえ、急速な発展によって狭隘となった横浜中心部から比較的近い場所に、横浜市民は天下一級の名園をえた。その幸福が歴史的にはなによりも勝ると考える。

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