横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第103号
2009(平成21)年1月28日発行

表紙画像

資料よもやま話
荻田小風(おぎたしょうふう)と『実業之横浜』

永井嘯月(しょうげつ)との交友

図4の写真は、永井嘯月(本名寅太郎)と家族である。荻田とは家族ぐるみの付き合いだったようだ。永井は『実業之横浜』の初期から文芸欄に作品を掲載しており、神戸支局主任と称し、「白鷺」名で「神戸だより」「神戸の工業」といった記事も寄稿していた。

図4:永井嘯月と家族 石坂英理子氏所蔵
永井嘯月と家族

図5の写真には、後列左に荻田、右に永井が写っている。制服姿の4人は、職場の同僚のように見える。永井も横浜税関に勤務しており、その後転勤で神戸に異動したのかも知れない。

図5:荻田小風と同僚たち 石坂英理子氏所蔵
荻田小風と同僚たち

また、永井は社主石渡道助と早くから親交があり、荻田が『実業之横浜』に作品を掲載するようになったのは、永井の影響があったと思われる。

『実業之横浜』最初の文芸欄「あらゝぎ欄」は、永井が担当し、3巻1号から12号まで掲載された。色々会もここに作品を掲載していた。

色々会と翠涛翁(すいとうおう)

文芸欄にはいくつかの団体が見られるが、その中の一つに、色々会があった。この会は、鎌倉在住の俳人翠涛(松本検吾)を中心に組織され、荻田が永井等と、翠涛に俳句の選者を依頼して始まったようだ。翠涛は『ホトトギス』に連句を寄せたりしているので、その関係で荻田と知り合ったのかも知れない。

欠号があるのではっきりとした時期はわからないが、『実業之横浜』3巻1号(明治39年8月)から7号までと、6巻11号から20号(明治42年10月)まで、不定期に作品が掲載された。

翠涛はその間、明治41年3月に亡くなり、荻田は『ホトトギス』11巻7号に追悼文を、一周忌には、『アラレ』6巻3号に「翠涛翁追懐記」を寄せている。

一周忌には永井も『実業之横浜』6巻8号(明治42年4月)に、「翠涛翁追善会」を掲載した。この時追善会に参加した同人は、荻田、永井、緑堂、華淵(女性)の4名だった。

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