横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第103号
2009(平成21)年1月28日発行

表紙画像

資料よもやま話
荻田小風(おぎたしょうふう)と『実業之横浜』

はじめに

明治37(1904)年に横浜で発行された『実業之横浜』は、実業関係の記事だけでなく、文芸欄や家庭欄をもうけ、読者獲得につとめていた。

この雑誌は、社主石渡道助と数名の社員が編集していた。13巻2号(大正5〈1916〉年2月)に、「無名倶楽部」例会の模様が掲載されている(図1)。この会は社員の親睦会のようであるが、このようなメンバーが集まって編集作業をしていたと思われる。

図1:「無名倶楽部」例会 神戸大学附属図書館所蔵
「無名倶楽部」例会

この中に、文芸欄を編集した荻田小風(おぎたしょうふう)がいた。上部真ん中の、口ひげを生やした人物である。このほど、荻田の孫にあたる荻田杏子氏より、資料のご教示をいただいた。資料をもとに荻田と文芸欄をめぐる人々について紹介したいと思う。

荻田小風について

荻田小風(本名才之助 図2)は、明治11(1878)年9月富山県下新川郡荻生村(現在黒部市)に生まれた。早稲田専門学校文学科を終了した後、明治32(1899)年3月から横浜税関に勤務した。

図2:荻田小風 石坂英理子氏所蔵
荻田小風

荻田が作品を新聞や雑誌に発表したのは、この頃からだったと思われる。自筆の「逑作目次」(図3)には、明治34年9月に『新文芸』に掲載された「臨終の音信」から、昭和32(1957)年1月に『ホトトギス』に載った「ホトトギス還暦の思出」まで、165の作品名が書かれている。

図3:荻田才之助「逑作目次」 石坂英理子氏寄贈
荻田才之助「逑作目次」

その作品は、明治36年の前半は主として『茨城日報』に、同年後半から翌年にかけては、『読売新聞』日曜付録に掲載されており、時折『ホトゝギス』、『アラレ』、『常総新聞』、『京浜新聞』にも掲載された。作品は、俳句のほか、写生文や小説が多かったようである。

『実業之横浜』に掲載されるようになったのは、明治38年11月の「焼打」という作品からであるが、所載されたナンバーは、当館では欠号になっている。その後、大正7年11月に発行された15周年記念号に至るまで、現在確認される86の作品が掲載されている。そして、12巻1号(大正4年1月)からは、文芸欄の編者になった。その頃荻田は、「小風」のほか、「滴露」、「愚仏」、「恵須翁」という筆名を使っていた。その後、大正5年4月に、荻田は勤務先を農商務省に転じたが、しばらくは文芸欄の編集を続けた。

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