横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第101号
2008(平成20)年7月30日発行

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資料よもやま話2
横浜の新民謡

地元から生まれる新民謡

レコードや楽譜が残るものは現在でも歌を再現できますが、その双方が作られなかったか、失われたものは、だいたいが歌詞が残るのみで、どのような歌であったのかは不明です。また、今日記憶している方がいたとしても、日本人はメロディーやリズムにはたいへん鷹揚で、本当にそれが元歌なのかは判断がつかない場合があります。

「浜取をどり」は作詞妙蓮寺太郎とあり、おそらくは素人が作った詞に、中山晋平が曲をつけたものと思われますが、『中山晋平作曲目録・年譜』(1980年刊)には掲載されていません。この「浜取をどり」を除けば、ほとんどがお座敷で唄われることが想定されるもので、「杵屋」「清元」や「見番」などの邦楽系・花柳界の作者によって作られ、「振付」者が記録されています。これらの歌は、震災後に開通した、湘南電鉄(蒔田・弘明寺・井土ヶ谷)や東京横浜電鉄(綱島)沿線の新しい盛り場に生まれています。

「綱島小唄」の作者飯田助夫は大綱村長で、昭和2年(1927年)横浜合併後は市議・県議、その後代議士になります。地元綱島が桃と温泉とで栄え、東京横浜電鉄の名所となったことから、地元振興のために筆を執った一例です。「綱島音頭」は、「神奈川シャンソン」「厚木音頭」をはじめ県下のいくつかの新民謡を残している栗原百也の詞で、曲を「神奈川音頭」から借りています。戦後にも同名の「綱島音頭」が作られているようですが、別の曲です(池谷光朗氏のご教示による)。

弘明寺の二曲は、作詞・作曲ともに記載がありません。作者も分からないままに盛んに歌われていた歌なのかもしれません。

花柳界から生み出されたと考えられる新民謡のなかで、「鶴見音頭」「鶴見小唄」は(おそらくは盤のAとBでしょう)、レコード化が確認されます。レコード化されていない歌と、鶴見の二曲とのちがいは、大規模な工場群をかかえて、多くの労働者が働く鶴見という町の大きさ、言い換えれば見込まれる購買者数に起因するもの考えます。

「綱島小唄」の作者飯田助夫
橘樹郡編『郡制有終記念帖』(1923年刊) 横浜開港資料館蔵
「綱島小唄」の作者飯田助夫

歌は世につれ

庶民にとって歌は、日々の労働の苦しさを和らげ、働きにリズムをつけるために生まれた労働歌をはじめ、祝い歌や祭り歌、遊び歌、わらべ歌など、なによりも「歌う」ものでした。歌がレコード盤に記録され普及しはじめるのは20世紀以降で、約100年しか経っていませんが、今日歌は圧倒的に「聴く」ものになっています。

ここで紹介した新民謡の多くは、小唄・音頭・おけさ、などの邦楽です。今日CDショップでこれらに類するジャンルを探すのはたいへんです。歌謡曲のなかにも日本古来の音階が息づいているものが少なくありませんが、今日では、「邦楽」は日本人のポップスや歌謡曲をさし、古来の邦楽は「純邦楽」として、小さなコーナーに追いやられているのが実情です。

関東大震災の被害から復興しようと苦闘した昭和前期、これら新民謡は口ずさまれ、歌われて、横浜市民の心にあかりを灯したことはまちがいないでしょう。

(平野正裕)

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