横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第101号
2008(平成20)年7月30日発行

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展示余話
横浜開港日の各国外交官

イギリス総領事オールコック

オールコックは前任地、広東から香港へ行き、軍艦サンプソンに搭乗して上海・長崎経由で横浜開港直前の6月26日、江戸に到着した。

59年7月9日付、本国外務省宛て報告書(General Correspondence, Japan (F.O.46) /3, No.8)によると、開港の日に領事館員を開港場に置かなければならないと考えたオールコックはヴァイスらを引き連れ、当日の朝、サンプソンに搭乗して品川を出航し、1時間30分で神奈川沖に到着した。そして急ピッチで建設が進む神奈川の対岸の横浜に上陸して視察した(『維新史料綱要 巻三』)。仮普請の木造建築、商店が立ち並ぶ通り、運上所、宏壮な造りの商館は完成したばかりのものあり、あるいは多数の職人が忙しく立ち働いて建築真っ最中のものあり、また港には立派な二本の波止場ありと、そのすばらしい様を報告した。

しかし幕府が外国側と何の相談もせず、有無を言わさずに横浜を開港地としたことは問題だと指摘した。オールコックは、この時、ハリスと会談の機会をもったが、実は上海寄港時にすでに会っていた(佐野真由子『オールコックの江戸』中公新書、2003年)。着任したばかりのオールコックは共同歩調を取ることを約束したのだろう。

オランダ副領事ポルスブルック

出島にいた駐日特命全権領事官のクルティウスに派遣され、7月3日に横浜に到着したポルスブルックは、日記につぎのように率直に横浜の開港場としての優位性を記した。

「税関は木の高層建築で、良く調度されていた。上陸場や荷揚げ・荷下ろしの小舟は申し分なかった。私は早速奉行に、神奈川は横浜とともにヨーロッパとの貿易に開放されたこと、そして私も反対する理由はないので、オランダ人が横浜に腰を落ち着けるのを妨げないであろう、と申し入れた。なぜなら横浜のほうが神奈川より良いと思うからで、しかも横浜港は船にとってずっと安全な港だったからである。ただ、我がオランダ政府は私を横浜領事ではなく神奈川領事に任命したので、私は神奈川に腰を落ち着けることになる、と言っておいた」(ヘルマン・ムースハルト編著、生熊文訳『ポルスブルック日本報告』雄松堂出版、1995年)。

三人とも横浜開港に反対の立場をとったが、そこには温度差があったことがわかる。この後もハリスらは条約違反だとしてつよく反対していくが、次第に外国商人が横浜に居住しはじめ、実質的に開港場となっていくと、翌60年(万延元)年、ついに横浜を承認した。

(中武香奈美)

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