横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第101号
2008(平成20)年7月30日発行

表紙画像

企画展
「白船来航」
米国大西洋艦隊を迎えた人・街・メディア

ペリーとスペリー

幕末の黒船出現に、「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜もねられず」と狂歌によんだほど驚愕した日本は、白船がやってきた1908年(明治41年)には、世界第五位の海軍力、黒船を有するまでに変貌をとげていた。黒船を率いたのはペリー提督、白船はスペリー提督である。

大隈重信は、ペリー艦隊の来航がわが国民の惰眠を破り、開国50年の歴史に偉大な事業を印したものとすれば、今回の米艦来航に対しては、我国民はまずペリー艦隊を記念しなければならない。半世紀前に彼らの祖先が日本に来て種を蒔きこれを文明に導いた、その出来栄えが今日どうであるか、定めし見事なる出来栄えであろう、と述べている(『東京朝日新聞』明治41年10月18日)。

黒船と白船の間には、明治維新、日清・日露戦争、不平等条約の改正(関税自主権回復は1911年)があった。この半世紀の日本の変貌は、当時の人々には感慨を、現在の私たちには驚異の念を呼び起こす。

樹木は人間の数珠なり

白船が入港した10月18日、横浜市内は早朝から沸きたっていた。午前6時頃には横浜駅は割れるがごとき大雑踏で、下車した人々は吸い寄せられるように桟橋に向かい、途中の本町通りは大混雑となった。

海上では三笠を旗艦とする日本海軍の接伴艦隊一六隻などが整然と待機。そのまわりには、神奈川県・東京朝日新聞社が仕立てた歓迎船など、多数の参観船がひしめいていた。

この壮観を一目見ようと、海岸通りは黒山の人で、通りの両側に並びきれない人々は街路樹によじ登り、「樹木は人間の数珠なり」(『東京朝日新聞』明治41年10月19日)という有様であった。

午前9時過ぎ、礼砲がとどろく中を、16隻の米国大西洋艦隊、白船が横浜港に入港した。午後2時前、司令長官スペリー提督は旗艦コネチカットより下船し、特設桟橋から上陸して周布公平神奈川県知事を表敬訪問した。

その後、三橋信方横浜市長主催の歓迎園遊会が横浜公園で行われ、夜にはグランド・ホテルでの市長晩餐会、続いて知事公邸で夜会が催された。

艦隊の滞在中に打ち上げられた花火は、2,400発あまり。市内の中心部は町ごとに趣向を凝らした歓迎門や提灯で飾られ、港内に停泊中の船舶はサーチライトの光をはなち、市内は歓迎の一色に染まった。

横浜公園での歓迎会で、三橋市長は次のように述べている。ペリー提督が初めて来航した当時は漁村に過ぎなかった横浜は、今は帝国貿易上の首港となり、それをもたらしたのが米国である。この感謝の気持ちと、ここまで成長した自らを顧みての自信と誇りが、市民の熱狂的な歓迎につながったのではないだろうか。

図1 国旗と提灯で飾られた弁天通りレヴィーン・コレクション
国旗と提灯で飾られた弁天通り

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