横浜開港資料館

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「開港のひろば」第101号
2008(平成20)年7月30日発行

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資料よもやま話1
中居屋重兵衛関係資料をめぐって

飯沼地区に残された文書から

中居屋関係資料の内、日記や著作物については、これまでにもさまざまな分析が加えられている(たとえば、前掲の拙著を参照)。しかし、飯沼地区に残された資料については、重右衛門が記した2冊の帳簿も含め、ほとんど分析が加えられていない。そこで、ここでは帳簿と昨年度に実施した調査で新たに所在を確認した資料について簡単に紹介したい。

まず、番頭重右衛門が記した2冊の帳簿であるが、この資料は『横浜市史』資料編一に収録されている。同書の解説によれば、帳簿の筆者である重右衛門(別名、玄仲)は中居屋と親交があり、中居屋を助けて番頭になった。

帳簿の内容は、万延元年(1860年)を中心にした金銭出納と重右衛門が同年8月上旬から9月下旬にかけて信州に生糸買付に行った時の記録である。

金銭出納には、上田藩や紀州藩の家臣の名前が散見し、中居屋が諸藩の産物方の役人と関係を持ちながら生糸を集荷したことがうかがえる。

また、生糸買付について記した帳簿には、現在の長野県飯田市から伊那市にかけての地名が多く見られる。買付の費用は数百両から千両以上に達し、中居屋が番頭を派遣して、飯田や伊那地方で大量の生糸を購入していたことを知ることができる。

昨年度の調査では現在、松田家が2冊の帳簿以外にどのような資料を所蔵しているのかを確認することはできなかったが、今後、こうした帳簿が発見されれば、中居屋の経営分析は大いに進展することは間違いない。

次に、昨年度の調査で新たに所在が確認された資料であるが、昭和28年(1953年)に、飯沼地区の郷倉から約4,600点もの資料が発見されたことが判明した。その後、これらの資料は地元の方々によって整理され、現在、新たに建築された文書保存庫に収納されている。

昨年度の調査では郷倉から発見された資料の内、飯沼地区の旧家吉池家の幕末の人々が記した「日記帳」を筆写したが、その結果、「日記帳」に中居屋の番頭をつとめた重右衛門(玄仲)が万延元年(1860年)7月4日に飯沼地区に店を開いたとの記述があることが確認された。

店でなにを扱っていたのかは不明であるが、当時、重右衛門が長野県内で生糸の買付をおこなっていたことを考えると、生糸集荷のための店であった可能性が高い。

また、「日記帳」を記した吉池家では、安政6年(1859年)秋頃から当主由之助が江戸や横浜に出向き、生糸取引をおこなっていた。江戸からの生糸代金の送金も頻繁であり、万延元年2月10日の「日記帳」には千両もの金が送られたと記されている。また、吉池家が上田藩の城下町商人に百両単位の金を融通していたことも記されている。

はたして、こうした飯沼地区の人々の活発な商業活動が、中居屋の横浜での活動とどのように関係していたのか、今のところ分からない。しかし、横浜が開港した頃、飯沼地区が信州地方の生糸流通の拠点のひとつであったことは間違いなく、飯沼地区を郷里とする番頭がいたことが、中居屋が大量の生糸を集荷できた要因のひとつであった可能性が強い。

生糸売込商の盛衰は激しく、大きな売込商であっても、その事跡を明らかにできないことが多い。ともあれ、生糸売込商の経営実態を明らにするためには、地道な調査が不可欠のようである。

(西川武臣)

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