横浜開港資料館

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「開港のひろば」第101号
2008(平成20)年7月30日発行

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資料よもやま話1
中居屋重兵衛関係資料をめぐって

中居重兵衛とその資料

中居屋重兵衛は、開港直後に上野国吾妻郡中居村(現在、群馬県嬬恋村)から横浜に進出し、輸出生糸の過半を扱った売込商である。しかし、明治初年に二代目重兵衛が店を閉じ、経営権を常盤屋に譲ったため、具体的な経営実態はほとんど分かっていない(二代目重兵衛については『開港のひろば』31号を参照)。

残された資料(中居屋の日記など)によれば、中居屋は開港以前から開明的な幕臣や諸藩の役人と交流し、その関係を利用して、生糸生産地を領地とする上田藩や会津藩の藩専売と結びつき大量の生糸を集荷している。

中居屋が扱った生糸の量は、開港後三ヶ月間で10トンを超え、その量はこの時期に横浜から輸出された生糸の5割を超えたといわれている(以上の点については拙著『幕末明治の国際市場と日本―生糸貿易と横浜』雄山閣出版発行を参照)。

このように中居屋は、開港直後の横浜でもっとも大量の生糸を扱った売込商であったが、その経営実態を現在に伝える「大福帳」や「金銭出納帳」などの帳簿類はほとんど残っておらず、わずかに中居屋の番頭であった重右衛門が安政6年(1859年)から翌年にかけて記した2冊の帳簿が残されているにすぎない。

ところで、横浜市は1950年代に『横浜市史』を編纂する過程で、二回にわたって中居屋重兵衛関係資料の調査をおこなった。そのひとつは中居屋の郷里である群馬県嬬恋村の調査であり、中居屋のご子孫にあたる黒岩家から中居屋の日記や著作物(幕末に江戸で刊行された本など)が発見された。

また、番頭の重右衛門が記した2冊の帳簿も中居屋のご子孫の家に残されていたが、帳簿は、黒岩家が重右衛門のご子孫にあたる松田家(同家は現在の長野県上田市上丸子飯沼地区に代々居住した)から譲り受けたものであった。

そのため、横浜市は長野県上田市上丸子飯沼地区にも調査団を派遣し、幕末から明治初年の飯沼地区の生糸出荷に関する資料の所在確認調査をおこなった。

これらの調査についての詳細は不明であるが、現在、いくつかの資料の筆写原稿や写真が横浜開港資料館に残されている。また、昨年度、横浜開港資料館では横浜資料調査研究会(代表、日本女子大学教授井川克彦氏)と合同で、嬬恋村と上田市上丸子飯沼地区の調査を実施し、かつて横浜市が調査した資料の再度の所在確認とこれまで所在が知られていなかった資料の調査をおこなった。

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