横浜開港資料館

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「開港のひろば」第101号
2008(平成20)年7月30日発行

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展示余話
横浜開港日の各国外交官

1859年7月1日(安政6年6月2日)、横浜は開港した。今日のような賑々しい記念行事などなく、ただ前日の6月30日に入港したアメリカ船のワンダラー号と、当日7月1日入港のオランダ船シラー号が手続きをすませた(当館編『横浜もののはじめ考 改訂版』2000年、27頁)。

開港日は、アメリカのハリスが最初に調印に成功した日米修好通商条約と、つづくオランダとの条約で7月4日と取り決められた。この日はアメリカがイギリスから独立した記念日である。ところが三番目の締結国、ロシアとの条約で7月1日に早められた。四番目のイギリスはこれに倣ったが、五番目のフランスは8月15日とした。フランス皇帝ナポレオン一世の誕生日である。

しかし通商条約には最恵国条款という条項が定められていた。条約締結諸国中の一国でも、より有利な取り扱いを受ける内容を得た際、他の締結国にも自動的に同内容が与えられる、というもので、そのため横浜開港は7月1日となった。

さて、日本を世界の自由貿易市場へと引っぱり出したこの記念すべき日、条約締結五ヵ国の駐日外交官らはどうしていたのだろうか。

この日、横浜(沖)にいたのはアメリカ公使ハリスとイギリス総領事オールコックの2名だけであった。駐神奈川オランダ副領事ポルスブルックは、遅れて3日に到着した。ロシア領事ゴスケヴィッチは箱館に在り、フランス総領事ド・ベルクールの来日は、9月のことだった。

アメリカ公使ハリス

体調が思わしくなかったハリスは59年4月末から6月半ばまで上海に旅行し、27日に下田に戻ると、急きょ、横浜開港に備えてドーアを駐神奈川代理領事に任命した。30日に下田を引き払って軍艦ミシシッピに乗艦し、横浜に到着したハリスは早速、ドーア着任を幕府に告げ、ドーアは7月4日、青木町の本覚寺に入って仮領事館とした(『維新史料綱要 巻三』)。

ハリスが来日前からつけていた日記、『ハリス日本滞在記』(坂田精一訳、岩波文庫)は横浜開港の前年の58年6月9日で終わっており、また通訳の『ヒュースケン日本日記』(青木枝朗訳、校倉書房、1971年)にはこの年の記述はなく、7月4日付でハリスが神奈川から送った本国国務省宛て報告書(Diplomatic Despatches: Japan, Vol.2, No.31)が、開港日のハリスの動向を伝えている。

横浜到着の翌日の7月1日、ハリスは開港自体には何もふれず、この日に幕府の内外貨幣交換政策を知り、貿易活動を妨げる恐れがある政策だ、との不安をいだいたと報告した。この問題に対して強固な妥協しない態度をとること、またオールコックとポルスブルックがこの問題だけでなく神奈川の開港場問題についても同じ考えであり、誠実に自分と行動を共にするだろうことを確信している、とも記した。ハリスは条約に明記された「神奈川」の開港を主張し、「横浜」を開港場とすることにつよく反対していた。

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