根岸の横浜監獄
新しい監獄の場所には掘割川沿いの根岸が選ばれた。現在の磯子区丸山の一角である。広さは2万2千坪あまり、移転時点での戸部の監獄が7,280坪であったから、約3倍に広がった。近代法治国家の象徴でもある監獄は、国家にとって重要な建築物である。横浜監獄の建設には、当時は内務技官であり官庁建築家として有名な妻木頼黄が管掌し、遠藤於菟が神奈川県技師として建設にあたった。
根岸の監獄が竣工し、戸部から移転したのは、1899年2月6日、条約改正の5カ月前のことである。新しい監獄は、周囲に高さ4メートル50センチあまりの煉瓦塀をめぐらし、総建坪は約6,600坪、建物は34棟で、独居房、雑居房、病監、見張所、浴室、炊事場、作業所、運動場、接見場、倉庫などにわかれていた。この年には1,048人が収監されていた。
新しくなったのは建物だけではない。従来、刑事被告人を監獄に送致する際には、数人を数珠つなぎにして徒歩で移動させていた。しかし、条約改正とともにこうした人権への配慮を欠いた方法を改めることになり、専用の馬車で送られることになった(『横浜貿易新報』明治32年2月23日)。
監獄が建設された掘割川沿いは桜の名所でもあり、市民に親しまれた散歩道でもあった。赤煉瓦の塀を背景した桜並木の風景は、絵はがきにもなっている。
図3 根岸の桜並木と監獄の煉瓦塀 当館蔵絵はがき

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