当時、逓信省といえば、独自の建築デザインで定評があった。たとえば、大正時代の逓信省建築は、パラボラアーチや曲面を多用した「表現主義」の様式を大胆に導入しており、実際、大正時代に建設がはじまった横浜中央電話局は、まさに典型的な表現主義建築だった。
ところが、この社屋は完成半ばにして関東大震災にあい、竣工にいたることなく解体されてしまう(図2)。現在の建物は、このあとを受けて建設された、昭和期逓信省の設計によるものである。
昭和の戦前期といえば、銀行建築によく見られるように、列柱の立ちならぶ威厳ある古典主義様式が頂点を極める一方で、重厚な装飾を削ぎ落としたシンプルな構成が流行した時代である。
この電話局は後者に属する。深い陰影の植物文様をもった装飾がなくなった代わりに、外壁一面にタイルを貼りめぐらしたことで、プレーンな印象がずいぶんと強い。凹凸のない平らな壁面、真四角に切られただけの窓。現在のオフィスビルのデザインまで、あと一歩である。
ところが、よく外壁を見てみると、アーチ状の開口部が連続する1階部分、細長い柱型でひとつにまとめられた2階〜4階部分、そして屋上部分と、壁面が三分割されている。この壁面分割は、古典主義様式の伝統的な手法であって、つまり電話局の建物は、形式的には伝統に則っているのである。大桟橋通りに面した玄関のアーチも同様である。キーストーンと持送りの位置に石を用いてアーチの形状を強調し、タイル貼りの部分にも規則的に溝を設けて、あたかも組積造であるかのような表現となっている(図3)。
これが戦前の建築を見る面白さである。よく見ると伝統の面影を残しながらも、しかし、足は確実に前へと踏み出している。新しい時代への期待がデザインにも託されたこの建築、震災復興のなかで生まれたことは決して偶然ではない。
今では、明治の建築はおろか、こうした昭和期の建築でさえも街中で目にする機会は少なくなった。集客力の高い商業施設が次々と誕生し、話題を独占する一方で、戦前の建物はひっそりと姿を消していっている。昭和という身近な過去でさえ、私たちは感じ取ることが難しくなりつつあるのだ。
今回、都心部に残る歴史的建造物を活用するかたちで、「横浜都市発展記念館」という都市横浜の歩みを紹介する展示施設が誕生する。戦前の建物ゆえの制約も大きいのだが、歴史への理解を深めると同時に、都市の遺産にも触れられるという点では、こんなに相応しい場所はないともいえる。
横浜という都市の歴史は大きな振幅をもっている。展示が待ちきれない方は、ぜひ一度、ゆっくりと街を歩いていただきたい。歴史の豊かな厚みは、展示施設のなかだけではなく、この建物にも、そして身の回りにもきっとまだ残されているはずである。その発見をもって、来春、この場所に戻ってきていただければ、嬉しいかぎりである。
|