資料よもやま話
赤れんが塀の横浜監獄
2001年12月、磯子区丸山にお住まいの金坂清香氏より、横浜監獄の赤煉瓦が寄贈された。近年山下町の建築現場から明治時代の瓦や煉瓦が出土しているが、どの建物に使用されたものかが判明する例は珍しい。金坂家は横浜監獄跡地に隣接し、関東大震災の際に、船大工であった先代が、自宅の建て直しに崩れた監獄の煉瓦を使ったという。そこで、寄贈された赤煉瓦が形づくっていた、根岸の横浜監獄について概観したい。
監獄の移転新築へ
1899年(明治32)年に根岸の監獄が開かれるまでは、戸部の監獄が受刑者の収容施設であった。戸部の監獄は1859年(安政6)の開港時に設けられたもので、「戸部牢屋敷」と呼ばれ、江戸時代以来の旧態依然とした施設であった。時代がくだるにつれて受刑者も増え、手狭になる。毎年のように修理・増築が行なわれるが、1890年頃には、犯罪の種類・年齢・犯数の区別もなしに、大部屋に90余名の受刑者が収監されている状態であった。また施設の老朽化もひどく、修理だけではなく、新しい広い土地での施設建設が必要とされたのである。
そこで、1892年(明治25)の神奈川県議会に、監獄建設費として、明治26年度より5カ年の計画で、合計25万4千円あまりの予算案が提出された。しかし賛否両論けんけんがくがくの議論のすえ、廃案となった。議論の焦点は、建築費の負担割合が市部と郡部とで異なる点であった。つまり、神奈川県下でも、横浜市部は人口一人あたりの負担額が、橘樹郡・久良岐郡・鎌倉郡など郡部の倍額になるというのである。郡部は、繁華な市部には入監者も多いから、監獄費は市部が多く負担すべきであると主張した。これに対し、来栖壮兵衛をはじめ市部代表の議員が大反対した。
翌明治26年の県議会に、ふたたび監獄建設費が提案された。予算額は六万円ほど減額され、合計19万195円。明治27年から31年までの5カ年計画で、初年度に3万190円、28年度から31年度は各4万円づつ、負担割合は昨年度同様、市部が郡部の二倍という案であった。議会は紛糾したが、今度は可決された。しかし、翌明治27年度の議会でも28年度以降の予算額を変更する議案が提出される。これはこの年勃発した日清戦争による地方税減額とからんで、28年度の支出額を2万円に減額し、次年度以降を5万円に増額するという変更案であった。これには再び市部の議員が猛反対し、総辞職までに発展したが、議案は可決され、監獄建設が実施されたのである(『神奈川県会史』第2巻)。
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