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1854年(ねん)・安政(あんせい)7年(ねん)、ペリーが横浜(よこはま)にやってきたとき、船内(せんない)で亡(な)くなった若(わか)い水兵(すいへい)のなきがらを埋葬(まいそう)したことが、外国人墓地(がいこくじんぼち)のはじまりとなりました。そのときは増徳院(ぞうとくいん)というお寺(てら)の敷地(しきち)でした。1859年(ねん)・安政(あんせい)6年(ねん)、横浜(よこはま)で貿易(ぼうえき)がはじまると、幕府(ばくふ)の開国政策(かいこくせいさく)に反対(はんたい)する武士(ぶし)たちによって、外国人(がいこくじん)を殺害(さつがい)する事件(じけん)がおこり、その犠牲者(ぎせいしゃ)も埋(う)められるようになります。1861年(ねん)・文久元年(ぶんきゅうがんねん)、外国人(がいこくじん)のなきがらが埋(う)められた一帯(いったい)は、外国人(がいこくじん)のための墓地(ぼち)として定(さだ)められました。現在(げんざい)では4500ほどのお墓(はか)があり、ビール産業(さんぎょう)をおこしたコープランド、油絵(あぶらえ)をおしえたワーグマン、フエリス女学院(じょがくいん)をつくったキダーなど、日本(にほん)の西洋化(せいようか)に大(おお)きな影響(えいきょう)をあたえた人(ひと)たちがねむっています。
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