横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第106号
2009(平成21)年10月28日発行

表紙画像

企画展
横浜の地方名望家

下菅田村の鈴木家

下菅田村(現・神奈川区)の名望家として知られる鈴木家の幕末期の当主・政右衛門(まさえもん)は、天保14(1843)年に旗本酒依(さかより)領の組頭に就任して以来、名主・知行所取締などを歴任した。明治に入ってこれらの役職は免ぜられたものの、新たに明治6(1873)年に下菅田村の村用掛(むらようかかり)、12年から下菅田・羽沢・三枚橋村の戸長(こちょう)、17年には下菅田外8ヶ村の連合戸長(こちょう)などに任命され、明治22年に発足した小机村(後に城郷村)の初代村長をもつとめた。

下菅田村の鈴木政右衛門(すずきまさえもん)邸(当館蔵『大日本博覧絵』)
家業の水油製造とともに、上方に政右衛門(まさえもん)(松林齋一晴)(しょうりんさいいっせい)の句「年古う(としふるう) 四壁に匂ふ(よかべににおう) 若葉かな」が見える。
下菅田村の鈴木政右衛門(すずきまさえもん)邸

政右衛門(まさえもん)は、極めて旺盛な事業意欲を持っていたことが知られている。明治3年時点で、下菅田村など5ヶ村に約12町歩の土地を有していたほか、神奈川町と横浜市街地に家作を持っていた。また横浜開港間もない頃から大豆や水油を横浜・神奈川に出荷した。さらに明治9年には新井新田(あらいしんでん)(現・保土ヶ谷区)の土地・54町歩を購入し、ここに大規模な茶園を経営するとともに、牧場経営に土地を提供した。政右衛門(まさえもん)は、この開墾事業に格別の思いを抱いていたようで、「開墾奮発致(いたし)、人を増加シ、貢租(こうそ)増納(ぞうのう)仕度(つかまつりたく)奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)」として、開墾成功の上は、村名を「鈴木村」と改称する旨の願書下書も残されている。(「鈴木喜晴家文書」「村名改称願」 明治10年)。牧場経営は長くは続かなかったようであるが、水油とともに茶の製造・販売は大正期頃まで続けられ、宇治・駿河の技術者を招聘して品種改良につとめる一方、地域の住民達に雇用機会を生み出すなど、地域経済の発展にも寄与した(西川武臣「19世紀後半の横浜近郊農村における商品流通」、『商品流通と東京市場』、日本経済評論社、2000年)。

このほか、政右衛門(まさえもん)は、「松林齋一晴」(しょうりんさいいっせい)という俳号を持ち、一流の俳人としても知られていた。明治27年には、政右衛門(まさえもん)と親交のあった俳人たち69名が、彼の古稀を祝して寄せた句集「古稀の栞」を贈っている。同じく俳人として知られた飯田快三(いいだかいぞう)は、政右衛門(まさえもん)の死去に際し、弔辞を寄せている。

政右衛門(まさえもん)の三男・栄輔(えいすけ)は、一時神奈川県に出仕したが、明治25年に父の後をうけて、城郷(しろさと)村の村長を大正5(1916)年までつとめたほか、神奈川県議にも選出される(在任・明治29〜31年)など、橘樹郡南部随一の名望家として知られた。

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