横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第106号
2009(平成21)年10月28日発行

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資料よもやま話1
『横浜貿易新聞』と
慶応義塾出身のジャーナリストたち

『横浜貿易新聞』は、明治23(1890)年2月1日に創刊され、横浜貿易商組合の機関紙となった。

宇川盛三郎を相談役とし、組合事務員の伊藤鉄次郎が主筆を務めた。創刊当時は、本紙4頁と夕報を東京支局で印刷していたが、5月から横浜で発行するようになった。この時、宇川が『横浜貿易新聞』を去り、主筆も交代した。

後を引き継いだのが慶応義塾出身の高橋義雄で、その後も同校出身者が主筆を務めるようになった。「慶応義塾入社帳」には、主筆4名の名前を見ることが出来る。彼らを紹介するとともに、『横浜貿易新聞』の歩みを見て行きたい。

高橋義雄(箒庵)

高橋は、文久2(1862)年2月茨城県東茨城郡下市三ノ町(現在水戸市)で、水戸藩士高橋常彦の四男として生まれた。福沢諭吉が、『時事新報』の記者を養成するため、特待の塾生を募集したのに応じ、明治14(1881)年9月に入学する。翌年卒業すると時事新報社に入社し、福沢からは期待されていたが、実業家を目指して、明治20(1887)年に退社した。

そして、明治23年5月から翌年2月初めまで横浜貿易商組合の顧問となり、『横浜貿易新聞』主筆を務めた。この頃の原紙はあまり残されていないが、同年6月29日の紙面には、7月1日以後の新聞に、全国の衆議院議員選挙結果の速報、横浜糸況の正確で迅速な報道、電信暗号の利用、米国機業家及び内外実業家の意見を掲載すると述べている。

高橋は、後に三井銀行に入行、三井呉服店に転じ、近代的なデパート「三越」の素地を作った。後半生は、箒庵と号し、茶の湯を対象とした文筆活動に従事した。

鈴木(小林)梅四郎

次に登場したのは、鈴木梅四郎だった。一時期小林姓を名乗っている。彼は、文久2年4月、長野県上水内郡安茂里村字平柴(現在長野市)に鈴木龍蔵の次男として生まれた。慶応義塾には明治14年3月に入学し、同20年に卒業した。時事新報社経済部主筆記者だった時、福沢の推薦で横浜貿易商組合顧問に招聘され、明治24年2月17日から編集に携わった。月給80円だったという。

就任と同時に紙面を刷新した。「横浜貿易新聞は実業専門の新聞紙なり」、「日本実業の良友、良保護者なり」の文字を掲げ、最も力を尽くす記事は、内国農工商業・外国貿易の現状及び未来の成行・金融の事情・運輸交通の便否などで、それらを詳細にまた正確に評論し、記述し報道すると記載している。そして、6月に発行所を南仲通5丁目に移転した。明治25(1892)年7月12日からは、実業的小説、内外紳士豪商の逸事、実業上の問答、内外国に於ける社会人事の珍聞奇聞を網羅し、実ある上更に花を添えるとし、殊に横浜商況は、東京の新聞よりも1日早く掲載すると記している。

明治26年に、『横浜貿易新聞』は横浜貿易商組合から独立したようだが、こちらも原紙が残されておらず、詳細は不明である。

鈴木は、明治27年に三井銀行に入行、明治35(1902)年に王子製紙に転じる。その後、衆議院議員も務めた。明治44(1911)年には、医師加藤時次郎とともに、低所得者に向けた実費診療所(診察料無料、薬価及手術料は実費徴収)の設立に参加し、理事長に就任した。

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