横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第106号
2009(平成21)年10月28日発行

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資料よもやま話1
『横浜貿易新聞』と
慶応義塾出身のジャーナリストたち

川上英一郎

鈴木の後を受けたのは、川上英一郎である。彼は、元治元(1864)年11月、新潟県中頚城郡高田馬場先町(現在上越市)に、高田藩士川上直本の長男として生まれる。明治14年6月、慶応義塾に入学。原紙が残されておらず、川上の『横浜貿易新聞』入社時期はわからない。明治31年6月に退社したが、その後も時折記事を寄稿していた。

一時期、カナダに居住したこともあった。明治44年から大正2年までは、鈴木とともに実費診療所に携わり、監事を務めている。大正12(1923)年の関東大震災後は、横浜市鶴見区鶴見町で合同信託調査所を営んだ。なお、長男は版画家の川上澄生である。

水沢専吉

川上の辞任により、それまで8年間『横浜貿易新聞』の編集に従事していた水沢が主筆となった。彼は、明治3(1870)年7月、新潟県三島郡才津村(現在長岡市)に、水沢宗一郎の次男として生まれた。慶応義塾入学は、明治18(1885)年1月だった。

明治31(1898)年6月12日の『横浜貿易新聞』に、主筆交代の挨拶文が掲載された。この時期の原紙は比較的良く残っている。経営も順調だったようで、同年7月24日の社告に、『横浜貿易新聞』は実業界の灯明台や羅針盤ではなく、その生命そのものであると記した。

また、実業関係記事だけでなく、小説の連載、「横浜神奈川謡曲家投票」など各種の読者投票、ペリーが嘉永7(1854)年に再来航した時の記録「亜墨理駕船渡来日記」など歴史史料の連載を行ない、読者の獲得を図った。

明治32(1899)年3月には、『横浜市報』が廃止され、その役割も果たすこととなった。また、この年の改正条約実施に先立ち、7月16日の社説で「風俗習慣の違いにより、当初は改正の効果が見られなくても、品位を保って外国人に接することにより、後に効果が得られる」と述べている。明治36年9月には、手狭になったため、社屋を尾上町5丁目に移転した。

さらに、明治37年5月に組織を改め、紙面の改良をはかった。その際、水沢が退社したのかも知れない。

貿易港横浜で発行された新聞の特色として、全国各地に読者がいたとはいえ、実業紙を維持するには苦労が多かった。ちなみに、『神奈川県統計書』によれば、明治36年・37年の発行部数は、およそ1日1万2千部ほどであった。

(上田由美)

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