横浜開港資料館

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「開港のひろば」第106号
2009(平成21)年10月28日発行

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企画展
村々の文明開化
港都を支えた200ヶ村の名士たち

神奈川県管内之図(現在の横浜市域の北半分)
当館蔵 明治11年10月
神奈川県管内之図(現在の横浜市域の北半分)

明治の初め頃、現在の横浜市域には、開港場・横浜を取り囲むように、約200もの村々がありました。これらの村々は、江戸時代には、幕府直轄領、旗本領、六浦藩(むつうらはん)領、寺社領などに細かく分かれていましたが、明治4(1871)年の廃藩置県以後、急速に近代的な地方行政制度へと整備が進められていきます。

まず明治5年に、それまでの庄屋・名主・年寄が廃止され、新たに戸長(こちょう)・副戸長(ふくこちょう)が村政事務にあたることになりました。翌年には神奈川県内を20の区に分割し、その下に数ヶ村を編制した番組を置く、区・番組制が実施されました。この制度は、明治7年に大区・小区制へと改称されます。

続いて明治11年7月に郡区町村編制法が布告されると、大区・小区は廃止され、県と町村の間に新たに郡が地方行政の単位として位置づけられました。神奈川県には1区15郡が置かれましたが、横浜区の周りには橘樹(たちばな)郡・都筑(つづき)郡・鎌倉郡・久良岐(くらき)郡があり、各郡役所が管下の町村を統括していました。

その10年後の明治21年4月には市制・町村制が公布され、大規模な町村合併を経て近代の町村が誕生しました。200の村々は約45の町村に統合されることになりました。

このように目まぐるしい行政区画の再編の中で、江戸時代に村役人をつとめていた各村の指導者たちは、三大改革と呼ばれた地租改正、学制頒布、徴兵制など、政府の近代化政策の担い手となりました。また村や郡を越えて広域的なネットワークを築き、自由民権運動、地域の殖産興業などを推進しました。政治・経済・文化活動を通して地域社会から広範な徳望を集めていた彼らは、明治20年代には地方名望家と呼ばれる存在になっていきます。

この展示では、地方名望家と呼ばれる地域のリーダーたちの動向に焦点を当てながら、明治前期における横浜の村々の諸相をたどります。

なお最後になりましたが、今回の展示会開催にあたりまして、多くの資料と情報をご提供いただきました所蔵者・関係者の皆様、ならびに関係諸団体・諸機関に対して心よりお礼申し上げます。

(松本洋幸)

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