横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第106号
2009(平成21)年10月28日発行

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企画展
横浜の地方名望家

南綱島村の池谷(いけのや)家

池谷(いけのや)家は南綱島村(現・港北区)の名主を代々つとめた旧家である。幕末期の当主・与惣右衛門(よそえもん)は、度重なる洪水氾濫を繰り返す鶴見川の改修を老中に直訴して捕らえられたが、罪科を免れ、鶴見川改修工事の監督主任を命じられるなど、沿岸住民の徳望も篤かった。

与惣右衛門(よそえもん)の息子・東馬(とうま)(政之丞)(まさのじょう)も、父に劣らず鶴見川改修に意を尽くし、明治3(1870)年に鶴見川の中流・小机から神奈川町に至る分水路計画を神奈川県に上申した。この計画は鶴見川の治水計画としては画期的なもので、洪水被害に悩む中流8ヶ村からも支持を集めたが、工費や地形上の問題等もあって実現しなかった(本誌86号「幻の鶴見川分水路計画」参照)。

並はずれた行政手腕と地域社会からの幅広い信望を備えていた東馬(とうま)は、明治6年、神奈川県が区・番組制度を施行すると、第3区(現在の神奈川区・保土ケ谷区・鶴見区西部・港北区東部)の区長(後に副区長)に任ぜられた。就任の翌日から、庶務取扱規則の制定、会所(区の役所)設立地の選定、事務用品の購入などに半月を費やしたほか、会所では彼を含めて4名の職員が、番組編制の繰り替え、管下の町村や住民から寄せられる苦情処理や、紛擾の調停に区内を周旋して回っている様子が、彼の残した公務記録に几帳面な文字で記されている。

第三区副区長時代の公務記録(池谷光朗(いけのやみつろう)氏所蔵)
第三区副区長時代の公務記録

東馬)(とうま)の跡を継いだ義廣(よしひろ)は、明治12年より南北綱島村・箕輪(みのわ)村の戸長(こちょう)、同17年からは南綱島村ほか7ヶ村の連合戸長(こちょう)をつとめた。明治17年、綱島から鶴見川を渡って神奈川町へと向かう綱島街道のうち太尾(ふとお)・樽・大曽根一帯に拡がる丘陵地(通称伯母子坂)(おばがざか)の改修工事が行われたが、義廣(よしひろ)は、沿道各村へ工事協力と費用負担(総工費約2千円)を求めるなど、その指導的役割を果たした。

一方、義廣(よしひろ)の長男・道太郎(みちたろう)は、地域の殖産興業に力を注いだ。彼は明治24年末から神奈川町の共有地を借りて「池谷(いけのや)牧場」の経営を始めた。畜牛は、久良岐(くらき)郡や鎌倉郡方面では早くから見られた副業であった。牧場経営は明治30年頃には、年間1000円を超える利益を生むまでになったが、長くは続かずに、明治35年には牧場の土地を返還している。

池谷牧場で使用していた牛乳缶(池谷光朗(いけのやみつろう)氏所蔵)
池谷牧場で使用していた牛乳缶

その後、道太郎は、毎年のように発生する鶴見川の水害に耐え得る農産物の調査を行い、36年から桃の栽培を開始、40年には早生種の日月桃(じつげつとう)の開発に成功した。この後、綱島地区には桃栽培が普及し、県北部では多摩川沿岸に次ぐ生産地となる。

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