横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第105号
2009(平成21)年7月29日発行

表紙画像

企画展
「横浜中華街150年」展出陳資料から

開港50年祭の中華街

今年2009年は開港150年。ちょうど百年前の1909年には、開港50年祭が盛大に営まれた。浜菱の市章と森鴎外作詞の横浜市歌が制定され、7月1日からの祭典では、新港埠頭の会場のほか、市内各地も華やかに飾られた。

前頁の写真と図1は、開港50年祭の中華街を写した絵葉書である。前頁の写真は現中華街大通りで、通りの両側の家々には、日章旗と清朝の龍旗が掲げられ、軒下には提灯がずらりと並ぶ。左手前の「包辧酒席」と見えるのは153番地の萬珍楼である。

図1 開港50年祭の中華街 1909年7月 横浜開港資料館所蔵
開港50年祭の中華街 1909年7月

図1は左が中華街大通り、万国旗がはためく、右の通りは現開港道である。中央の建物は、現在の山下町交番の位置にあたるが、舞台が組まれ、「祝開港50年」の提灯が飾られている。『横浜開港50年紀念帖』(1909年)には、「在留清国人は一層の奮発を為し此の時関帝廟の祭典を挙行し爆竹の響は天地を震撼せしめたり」と記されている。百年前の中華街の人びとも、横浜開港50年を盛大に祝った。

横浜名所の中華街

中華街の風物が横浜名所となったのは、いつ頃からなのだろう。その答えは案外古いようだ。図2は尾上町の旅館、広島屋が客に配った「横浜名所案内表」である。その円形の下部に「会芳楼」、「関帝廟」とある。この二つが、波止場、天主堂、外国人商館、町会所などと並ぶ観光名所だったことを伝える。

図2 横浜名所案内表 1877年頃 横浜開港資料館所蔵
横浜名所案内表 1877年頃

関帝廟は、その前身の祠が文久2年(1862)に居留地140番地に造られた。本格的な廟は、中華会館が中心となって募金を集め、明治4年(1871)に竣工した。中国様式の廟は珍しかったと見え、洋画家五姓田義松がその姿を描いたり、英文雑誌The Far Eastに写真が掲載されたりしている。

会芳楼は居留地に最初にできた劇場で、料理店も兼ねていた。中国劇だけでなく、西洋の劇やサーカスなども催された。店内は書画骨董や珍器盆栽で飾られ、「横浜名所南京やしき」という浮世絵も描かれた。会芳楼は経営上の問題で明治10年(1877)頃には閉店するので、この案内表もその頃までのものと考えられる。

1910年頃になると、各種の案内書に横浜の年中行事として、2月の春節と6月の関帝誕があげられるようになる。その頃には中華街の祭りが横浜の風物誌となっていたことがわかる。

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