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「開港のひろば」第105号
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企画展
横浜中華街150年 落地生根の歳月
落地生根(らくちせいこん)とは、ある土地に根をおろして暮らすこと、とくに中国人が移住先に定住する様を表現した言葉です。対義語に落葉帰根(らくようきこん)、出稼ぎののち故郷に帰る、があります。横浜中華街の150年は、華僑華人の落葉帰根から落地生根への営みです。
1859年7月1日、港が開かれ居留地が開設されると、諸外国の人びとが横浜にやってきました。入港第一号はアメリカ系商社、オーガスティン・ハード商会の傭船ワンダラー号です。ハード商会には香港からやってきた中国人買弁がおり、この船で来航した可能性が高いのです。横浜の開港と同時に、中国人の足跡が刻まれたことになります。
香港や上海の欧米商館で経験を積んだ中国人は、言葉や商習慣の異なる西洋人と日本人との間で、仲介者の役割を果たします。また、欧米人が生活を営むために必要な、さまざまなサービスを提供しました。
居留地社会で不可欠な存在となった中国人は、開港後20年で2245人、居留外国人人口の6割を占めるまでになります。横浜の開港は、欧米諸国だけでなく、中国に向けての開港であったといえます。
中華街150年の歳月は、平坦ではありません。1894年には日清戦争が勃発し、3分の1あまりの中国人が帰国します。1899年の条約改正・居留地撤廃では、旧居留地・雑居地外で暮らす場合、中国人は職業が制限されることになりました。
1923年の関東大震災では、中華街は壊滅的な打撃を受けます。5700人あまりの華僑が暮らしていましたが、1700人近くが亡くなり、生き残った人びとも阪神地域や本国へ避難し、一時は135人にまで激減します。
それでも中華街は生き返りました。1930年には、中華街大通りに老舗聘珍楼が復活し、豪華な建物がお目見えします。その後華僑や日本人が経営する大型店舗があいつぎ、昭和モダンの中華街が出現しました。
しかし、日中戦争が勃発し、戦時下の生活を耐える華僑に、1945年の横浜大空襲が追い討ちをかけます。中華街は再び焦土と化します。
戦後はヤミ市の時代から観光名所への復活を果たし、グルメブームで飛躍。現在、年間2千万を超える人びとで賑わう、世界有数のチャイナタウンへと成長しました。近代横浜の歴史を体現する街、中華街。その150年にわたる歳月をたどります。
(伊藤泉美)