横浜開港資料館

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「開港のひろば」第105号
2009(平成21)年7月29日発行

表紙画像

企画展
「横浜中華街150年」展出陳資料から

中国野球の父

1930年6月15日、横浜野球協会市民野球大会で、華僑のチーム、中華野球団が優勝した。獅子のマークのユニホームを着た選手たちは、誇らしげに帽子をかかげて微笑む。

図5 中華野球団の選手たち 横浜公園野球場で 1930年6月15日 梁友義氏所蔵
中華野球団の選手たち 横浜公園野球場で 1930年6月15日

このチームを率いたのは、監督兼選手の梁扶初。後列一番左に写っている。梁は1901年、10歳の時に両親とともに来日。横浜で野球と出会い、14歳の時に中華街の友人を集めて野球チームを結成した。外国人居留地を擁した横浜は、日本で最初に野球試合が行われ、野球熱が盛んな土地柄だ。

梁は「覚醒セル獅子」の精神で、選手に厳しい練習を課したが、その舞台は本牧十二天のグラウンドだった。梁扶初の長男で2007年に85歳で亡くなった梁友徳は、晩年までこの時のことを覚えていた。

1923年9月1日、梁扶初は関東大震災に遭遇する。一端は神戸に避難するが、9月24日、震災で犠牲になった華僑の遺体を集めるため、神戸華僑の救済団を率いて横浜に戻った。瓦礫の街を歩き、一カ月の間に982体を収容して荼毘にふした。

華僑社会で人望を集めた梁扶初は、震災後の中華会館役員選挙に推されたり、日本人と中国人の自治組織、山下町日華連合会の副会長に就任したりした。そして、中華街の野球チームを復活させ、1930年の大会で、中華野球団を見事優勝に導いた。

しかし、1931年に満州事変、32年に上海事変が起こると、梁一家は帰国する。その後は日中戦争や文化大革命の混乱を乗り越えて、中国での野球の普及に奔走する。1968年に梁扶初が亡くなると、息子たちが意志を継いだ。北京オリンピックでは、中国の野球チームが注目されたが、その礎を築いたのは梁一家であり、中国野球のルーツは横浜中華街にあった。

本稿執筆にあたっては、梅村雅裕、曽鮑玉琴、鮑建成、鮑啓泰、鮑啓東、梁友義、梁友文の各氏のご協力をえました。記して謝意を表します。

(伊藤泉美)

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