横浜開港資料館

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「開港のひろば」第105号
2009(平成21)年7月29日発行

表紙画像

企画展
「横浜中華街150年」展出陳資料から

昭和モダンの中華街

震災復興を遂げた1930年頃から、横浜大空襲で再びの焦土と化す1945年までの中華街。これまでは注目されなかったが、今回、当時の写真や資料を調べてみると、15年あまりの短さにもかかわらず、この時期の中華街は、独特な雰囲気を醸し出す街並みであったことがわかった。

図3は1935年頃の中華街大通りだ。左手の旅館のような建物は中華料理店の平安楼。市会議員をつとめた沼田安蔵の経営で、店内には洋室、和室、日本庭園などを備え、目黒雅叙園にも負けない設備を誇った。その隣、中国風の屋根がそびえるのは、1933年開業の萬新楼。客間は豪華を誇り、広東から招いたコックの料理は定評があり、政治家・実業家の顧客に支持された。その先には金陵、一楽、聘珍楼と並ぶ。萬新楼、聘珍楼と、電信柱に名前の見える安楽園は、「浜自慢五十佳選」に選ばれている(『横浜貿易新報』1934年7月23日・27日号)。

図3 1935年頃の中華街大通り 横浜開港資料館所蔵
1935年頃の中華街大通り

右手手前の建物は、横浜大空襲をくぐりぬけ、数年前まで、中華街の人口に立っていた加賀ビルである。1932年建造で、当時としてはモダンなタイル貼りである。

家族の肖像

一枚の結婚式の写真がある。1935年11月15日に行われた、鮑家と譚家の結婚式である。中央の新郎は鮑金鉅(ほうきんきょ)、老舗料理店、聘珍楼の四代目だ。左隣は父親で三代目の鮑荘昭。初代、二代の詳細は不明だが、鮑家は広東省香山県(現中山市)の出身で、同郷の親戚、鮑焜(ほうこん)が1869年、ジャーディン・マセソン商会の買弁として訪れ、一族の横浜とのつながりが始まったと考えられる。

図4 鮑家譚家結婚式 1935年11月15日 鮑啓東氏所蔵
鮑家譚家結婚式 1935年11月15日

新婦の名は譚瑞仙。現在97歳で茅ケ崎市に健在だ。父は幕末に横浜を訪れたコック・アイこと譚有発。譚有発は1865年には居留地でソーダ水の製造を始め、その後均昌洋服店を開く。譚有発は来日した孫文を支持したことでも知られる。

譚有発の妻、新婦の母は鈴木コウで、前列の和服の女性である。和服・洋服・中国服の人びとがおさまる一枚の写真には、横浜の地を踏んでから70年あまりの、両家の歳月が刻まれている。

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