新たな疑問
話題を蓮杖に戻す。蓮杖はウィルソンのスタジオを継承して開業したのだが、そのうち建物の所有者ショイヤーの都合で立ち退きを迫られて戸部に移り、しばらくして薬液が尽きて、「研究1年余、寝食を忘れて刻苦」したという。これが失敗すれば夜逃げをする他ないという段になってようやく撮影に成功、「蓮杖驚喜して手の舞ひ足の踏むを知らず」というのは『写真事歴』のなかでもっとも有名な部分である。
湿板写真術習得のむずかしさについては、上野彦馬を始め、多くの事例が知られている。ところが近年判明した事実によれば、フリーマンもウィルソンもアマチュアに毛の生えたような写真家だったし、鵜飼玉川についてはそのような苦労話は伝わっていない。
ここで写真の枠飾りに注目していただきたい。先の出島松造像の枠飾りは、勝海舟が咸臨丸で渡米した際、サンフランシスコのウィリアム・シューの写真館で写した写真のそれとほぼ同じ。三浦秀真像の中枠は福井市立郷土歴史博物館に保存されている春嶽公記念文庫中の被写体不明の写真と同じ。これらは当時広く使用されていた既製品であって、玉川はフリーマンが輸入したものを使っていたと容易に推測される。
蓮杖もショイヤーのもとで働いていたのだから、ショイヤーを通じて、ガラス板や薬品など、輸入の既製品を使うことができたはずなのに、なぜ苦労して自作しなければならなかったのか? フリーマンやウィルソンなど、日本写真史の初期の段階で、セミプロの写真家が重要な役割を果たしているだけに、よけいに疑問が湧いてくる。蓮杖の『写真事歴』の苦労話はかなり割り引いて読まなければならないことは確かなようである。
(斎藤多喜夫)
写真6
下岡蓮杖「赤井重遠像」 文久3年(1863)10月。
森田写真事務所蔵
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