居留地の町づくり
かくして外国商人たちは、晴れて横浜に居住することができるようになった。しかし、それは既成事実の事後承認といった性格のものであり、あくまで「仮」の居留地にすぎなかったが、これ以降居留地の町づくりが本格的に進められていく。再び『イリス商会百年史』を引用すると、その頃の様子は次のようであった。
「若い商人たちは簡単な木造家屋の建設に着手し、たちまちのうちにズラリと家が建ち並んだ。そこでは一間で居間、寝室、倉庫兼用であり、夜ともなれば商品の側で、装填した拳銃を傍らに寝たものだった。そして日中ともなると、アメリカの山師さながらにネルのシャツを着て長靴をはき、開拓者じみた生活をしていた。その結果たいして経たない内に、この漁村はちょっとした町になり、やがて都市となって、その商業活動は長崎よりもずっと速く伸びていった。」
浮世絵師五雲亭貞秀の『横浜土産』二編(万延元年4月刊)や『神奈川横浜二十八景』(同5月刊)に描かれている外国人の住宅はその頃の様子を示すものと思われる。決め手となるのは、外国人の居住区の縁に設けられている板塀である。この塀は火災以前には存在せず、1860年5月には存在していた記録があるからである。
図によって見るかぎり、その建物は火災以前と同様の日本風の長屋や納屋である。おそらくこれらは「一間で居間、寝室、倉庫兼用」の応急の仮設住宅であり、もう一方で本建築も始まるのではないか。ジャーディン・マセソン商会の白亜2層の社屋の建設が、すでにこの頃始まっているからである。
これ以降の数年間(万延・文久年間)は居留地の草創期であった。都市としての体裁を整えつつある居留地の様子を、『イリス商会百年史』が引用する1863年2月の日付をもつ一書簡は、次のように描写している。
「かつての漁村横浜は全く小パリと化した。木造の建物はほとんど堅固な石造に変わり、岸辺には美しい波止場が延び、夜ともなれば飾り立てた婦人が行き交い、男たちはピカピカ光る革靴をはき、革の手袋をはめて漫歩し、ネルのシャツを着込んで古風な高いカラーと手袋をしている往時の居留民にでも会おうものなら、鼻に皺を寄せて馬鹿にするだろう。」
(斎藤多喜夫)
|