展示余話
井関盛艮と明治初年の神奈川県
日本初の日本語日刊新聞『横浜毎日新聞』は、明治3年12月8日(1871年1月28日)に創刊した。創刊にあたっては、当時神奈川県知事だった井関盛艮(いぜき・もりとめ、1833〜1890)の発議で、横浜商人が出資して実現した。
しかし、盛艮についてはあまり知られていない。前回の企画展示「日刊新聞、誕生ス―『横濱毎日新聞』と文明開化の人々―」では、東京都港区立港郷土資料館から井関家文書を借用し、盛艮の肖像写真(複製)もあわせて展示した。ここでは、井関家文書を紹介したい。
井関家文書と盛艮
井関家文書は、東京都港区立港郷土資料館が同区に在住の井関家より寄贈を受けたもので、系譜類5点、由緒書・年譜5点、過去帳・祭祀関係6点、勤務関係4点、その他3点で合計23点からなる。このほか、盛艮が収集した人物写真230点がある。写真には、盛艮と親交のあった政府高官や知識人、来日外国人などが相当数含まれている。
文書は、『港区立港郷土資料館所蔵文書目録』(東京都港区教育委員会 平成8年)に目録が収録されており、写真については、『写真集近代日本を支えた人々』(東京都港区教育委員会 平成4年)にまとめられている。
井関家は、江戸時代に宇和島藩主伊達氏に仕え、代々宇和島藩士であった。盛艮は、文久3年(1863)大目付役軍使兼寺社奉行となり、翌年藩主伊達宗城に同行し京都に滞在。周旋方として諸藩の藩士と交流があった。
明治になって、外国事務局につとめるが、明治2年、第五代神奈川県知事に就任する。明治4年以降は、宇和島、名古屋、島根などの権令、県令を歴任し、地方行政にたずさわった。
明治9年に行政からしりぞいてからは、第二十国立銀行取締役、東京株式取引所肝煎頭取などをつとめ、実業界で活躍した。
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