資料よもやま話
横浜最初の大火事
−1860年1月3日(安政6年12月11日)
神奈川VS横浜
今から150年前の1854年3月31日(安政元年3月3日)、横浜の地で日米和親条約が締結された。現在横浜開港資料館が存在するこの辺りが、その故地に当たる。
横浜で締結された日米和親条約が神奈川条約と呼ばれたように、神奈川と横浜は一つの湾に臨む一つの地域と考えられていた。安政5年に結ばれた日米修好通商条約が開港場に定めた「神奈川」も同じ意味だった。ところが、時の大老井伊直弼が、神奈川ではなく横浜を開港したのである。そのために、外国公使団との対立が発生した。
神奈川か横浜かの二者択一ということになれば、水深の深い横浜地先は大型船の碇泊地として優れており、背後に市街地として開発しうる広大な新田地域の存在する利点もあった。それに、参勤交代の大名行列が行き交う東海道沿いの神奈川では、外国人との間にトラブルが予想され、辺鄙な横浜の方がはるかに取り締まりやすかった。
そもそも神奈川と横浜が一つの地域に見えるのは海から見てのことである。陸から見ると、両者は二つの入江と一つの山塊によって隔てられていた。東海道から横浜へ行くには、保土ヶ谷宿の近くで南に折れ、戸部の山を越えて、さらに吉田新田を横切らなければならなかった。まさに陸の孤島だったのである。
外国公使団は、そのような場所に開港場を設けようとする幕府の政策に、外国人を隔離することによって貿易の発展を妨げようとする意図を見てとり、猛反対した。しかし、外国商人たちの反応は別だった。かれらは、実際上の利害から判断して、波止場や運上所(現在の税関にあたる役所)があり、すでに日本人商人が店舗を構えている横浜を選んだ。隔離されているほうがかえって安全だという考え方もあった。
かくして神奈川VS横浜の対立は、日本と外国の間のみならず、外国の官と民の間にも波及したのである。
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