『横浜市史 資料編二』によれば、洋紙の輸入額は、明治元年に389円だったのが、同3年には9,829円、4年に24,626円と急増し、明治5年には4,072円と前年の約1/6に落ち込み、明治6年に33,269円に増えています。
輸入洋紙の増減は、新聞の発行にも影響しました。明治5年10月23日付の『横浜毎日新聞』には、洋紙を注文したものの、未だ到着しないので、当分の間薄手の紙で出版するとことわり、新聞を発行しています。そこで、当館が所蔵している新聞をみると、10月23日から同月29日までは、薄手の紙を使用しています。さらに、印刷すると裏面に写ってしまうため、両面ではなく片面に印刷されています。
また、印刷に使用した洋紙に、継ぎ目の入ったものも見つかっています。写真は、明治5年11月4日付ですが、貼り合せた紙ののりしろがはがれてしまった新聞です。
このように、はじめの頃は洋紙の確保に苦労していたようですが、明治6年8月13日付の同紙には、横浜毎日新聞会社が、新聞印刷用ほかの洋紙各種を安価で販売するという広告がありますから、この頃には入手しやすくなっていたのでしょう。
ところで、国産の洋紙が製造されるようになったのは、明治7年からで、同年に東京の有恒社、明治8年に東京の抄紙会社、三田製紙所、大阪の蓬莱社製紙部、明治9年に京都のパピール・ファブリック、明治12年に神戸製紙所が発足しました。これら民間の6社が、日本の洋紙の創生期を築いたといわれています。これらの製紙会社は、輸入洋紙との苛烈な競争をするようになりました。
しかし、明治9年から同13年にかけて、政府から国民の土地所有権を証明する証書である地券用紙の大量注文が入り、製紙会社の経営はしだいに安定するようになりました。
また、江戸時代からの木版に代わり、大量に印刷できる活版印刷が普及するにつれて、官公庁の用紙や、公報、翻訳書そのほか書籍に使う出版用紙などの需要が年々増大します。
こうしたなか、新聞用の洋紙の需要も伸び、国産の洋紙を使用する新聞が増加していきました。
新聞の洋紙使用については、羽島知之氏にご教示を得ました。
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