最初の外国人居住地
公使団が横浜に居留地を設定することを認めるまでの半年余の間、外国商人たちは、幕府が用意した貸長屋や横浜村農民の農家を借りて仮住まいを余儀なくされていた。当時の模様を『イリス商会百年史』は次のように形容している。
「商人たちにとって問題だったのは、ともかく速やかに住居を定める事であり、企業心に富むかれらには冒険は好むところであったので、文句も言わずに横浜に留まったが、これはアメリカのゴールド・ラッシュの時代に似ていると云われている。」
福沢諭吉の回顧談『福翁自伝』にも、「開けたばかり」の横浜へ見物に行った時のこととして、「掘立小屋みたいな家が諸方にチョイチョイできて、外国人がそこに住まって店を出している」という記述がある。
開港から5か月程経った安政6年11月には、幕府が12棟の「外国人仮家・貸納屋」を建設している。その頃の様子を描いた絵図に、警備を担当した福井藩の作成になる「御持場海岸分見画図」(松平宗紀氏所蔵福井県立図書館保管松平文庫)とアメリカに帰化した日本人漂流民ジョセフ・ヒコの自叙伝『アメリカ彦蔵自伝』(山口修/中川努訳、平凡社、東洋文庫)に掲載されている Original plan of Yokohama の2つがある。ここでは後者を紹介しよう(図1)。
図中、Xと記された二つの小さな突堤が現在の大桟橋の付け根の辺り、Yには「ペリーが最初の条約に調印したところ」という注が付いている。日米和親条約締結の地、つまり当館所在地辺りである。その右手、大きな二棟の長屋風の建物を中心に家屋の点在している地域が最初の外国人居住地である。
図1 開港直後の横浜『アメリカ彦蔵自伝』(当館所蔵)より

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