喜楽座と連鎖劇
大芝居を失った喜楽座は、芝居の存在自体を脅かす存在となっていた映画と共存する道を選んだ。連鎖劇がそれである。
連鎖劇については未解明な部分が多い。劇中の一幕を活動写真で構成する場合もあれば、座付き役者出演の映画と、通常の劇とを抱き合わせにして、出し物とする場合と2つある。前者は、激しい屋外での「殺陣(たて)」のシーンや、人力車に乗って町並みをすすむシーンなどを、劇の途中でスクリーンをおろして映し出し、舞台に電気応用の空間的広がりをもたせるものである。喜楽座がとった連鎖劇は後者であったようだ。
大正4年(1915)、劇場特有の枡席を、映画館と同じ椅子席に、花道をも着脱式に変えた喜楽座は、そののち市村座名題の尾上紋十郎ら歌舞伎役者、浅草開成座から中野信近、武島静子・浅尾寿磨子らの新派役者を幹部俳優として、連鎖劇の映画製作に乗り出した(今日フィルムは残っていない。全国的にみても、連鎖劇のフィルムはまず残存していない)。新派の代表的役者である井上正夫も大正五年に喜楽座で連鎖劇を興行し、のちに横浜座でもおこなっている。芝居は人気のある映画に積極的に寄り添うことで、人気回復をもくろんだといえよう。喜楽座の尾上紋十郎は、震災後帝国キネマの俳優に転身した。また、大正9年(1920)元町に撮影所をもった大正活動写真株式会社(大活)の処女作「アマチュア倶楽部」は、ハリウッド仕込みの撮影法を導入した日本映画史上記念碑的な作品であるが、その大道具は喜楽座のスタッフによるものであった。連鎖劇は、日本映画に一定の足跡を残した。
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