当時の日本語の新聞は、和紙に木版摺りで、和綴じの冊子になっているものでした。ところが『横浜毎日新聞』は、洋紙に両面刷、活版で印刷した画期的な新聞でした。最初のうちは木活字が含まれていましたが、後に鉛活字を使用しています。
刊行の目的は、「新聞紙の専務は、四民中外貿易の基本を立て、皆自商法の活眼を開かしめんが為め本社の因て設けし所也。」とし、世界や国内の動静、物価などを載せ、諸民の智識を啓発することでした。
創刊号の内容は、新聞購読料、広告掲載料、両替相場、船舶出入、内外雑報、輸出入品、競売、売家、広告などです。商況などの経済記事や商店の広告などがほとんどでした。初期の紙面からは、広告掲載料が収入のかなりの部分を占めていたことがうかがえます。
「商家の便利を第一」とした『横浜毎日新聞』は、当時大変珍しいものだったと思われますし、横浜での貿易の商況が掲載されているため、日本各地で販売され、あるいは送られており、さまざまな場所で原紙がみつかっています。
創刊号は、群馬県高山村の旧家で発見されました。所蔵していた家には、明治2年3月に前橋藩が開設した横浜生糸直売所に勤務していた人がおり、代々その家に伝わったと思われます。当館で一番古い明治4年のものは、佐賀県の商家でみつかりました。そして、地元の旧家にも残されています。石鹸の製造販売をしていた家、自由民権運動家が学校で使用したと思われるものもあります。
政府や県は、新しい情報媒体としての新聞を利用しようとし、様々な保護政策をとります。展示では、人々がどのように新聞を受け入れていったのかをみていきます。
また、創刊当時は経済情報主体の『横浜毎日新聞』が、文明開化の風潮のなかで、どのように変化していったのかも考えていきます。
|