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館報「開港のひろば」バックナンバー


資料よもやま話
高島嘉右衛門と大綱山荘
〜高島台に残る和洋折衷住宅〜

 高島易断の祖として知られ、幕末・明治期の横浜のまちづくりに大きな功績のあった高島嘉右衛門(1832〜1914)の名は、現在でも高島町(横浜市西区)や高島台(同神奈川区)という地名になって残されている。

 周知のとおり、高島町は、京浜間の鉄道開業に際して、嘉右衛門が鉄道用地として埋め立てた土地であり、その埋立工事の進捗状況を眺めながら工事の指揮を執った場所で、のちに実業界から身を引いた嘉右衛門が山荘を築いた神奈川台の土地が、現在の高島台である。

 このたび横浜開港資料館では、現在も高島台にお住まいの高島嘉右衛門のご遺族から、資料の寄託を受けることになった。資料の内容は、明治26年から開墾が始まった北海道の高島農場の関係資料をはじめ、高島台の土地・建物関係資料、名所図会・易書などの和本類である。現在、資料を借用して目録を作成している段階であるが、整理が済んだ段階で寄託を受ける予定である。

 ところで、高島嘉右衛門の偉業に比べて、その邸宅については、これまでほとんど語られることがなかった。今回、資料を借用するにあたり、嘉右衛門が晩年を過ごしたという高島台の邸宅が現存していることが判明したため、本稿ではその建物について、当時を知る資料と併せて紹介しておきたい。


大綱山荘の建設

 高島嘉右衛門の伝記のひとつ、『呑象高島嘉右衛門翁伝』(大正3年)によると、嘉右衛門が実業界から身を引き、入船町の本宅から神奈川台の大綱山(大綱神社があったことからこう称されていた)に隠退したのは明治9年のこと。おそらくこの頃から、広大な敷地に次々と山荘の施設群を整えていったと思われ、同書には、明治16年に山荘が完成したとある。

「開港のひろば」第82号
2003(平成15)年10月29日発行

企画展
日刊新聞、誕生ス
−『横浜毎日新聞』と文明開化の横浜−
企画展
『横浜毎日新聞』と文明開化の人々
展示余話
「団菊以後」の横浜
資料よもやま話
高島嘉右衛門と大綱山荘〜高島台に残る和洋折衷住宅〜

大綱山荘の建設
開かれた庭園
高島邸にみる和洋折衷
閲覧室から
新聞万華鏡(13)
新聞解話会
資料館だより

 大綱山荘の全体像は、『横浜諸会社諸商店之図』(横浜開港資料館所蔵)に収録された銅版画から知ることができる。「日本神奈川 高島嘉右衛門別荘之図」と題された銅版画には、自らが埋め立てた高島町の地を見晴らす位置に築かれた広大な山荘が、6枚に分けて描かれており、敷地内には大小さまざまの建物が建てられていることがわかる。この銅版画の制作年代は、これまでの研究で明治10年代後半から20代前半のあいだとされており、山荘の完成を明治16年とする伝記の記述に大きな間違いがないとすれば、完成後の高島別邸のすがたが描かれているとみてよい。

 図1は、山荘の中心部の抜粋である。縁側をもち建具を開放した瓦葺の和風住宅が、庭を取り囲むかたちで雁行している。日本の伝統的かつ典型的な邸宅の構えである。一方で目につくのは、右手に見えるヴェランダ付き洋館である。高島邸内の洋館については、横浜瓦斯局(嘉右衛門が創業した横浜瓦斯会社を前身にもつ)の施設を移築したという説と、入船町の本邸を移築したとする説があり、現時点では、いずれとも判断できないし、移築の年代がわからない以上、ここに描かれた洋館が果たしてその建物かどうかも断定はできない。移築された洋館についての問題は、あらためて検討したい。


図1 銅版画に描かれた高島別邸(円内が現在の高島邸にあたる)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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