開かれた庭園
さて、図1には、邸内のあちこちに人の姿が描かれている。右端には門の外で待つ人力車が描かれているし、洋装と思われる男女の姿も見受けられる。よく見ると、人びとは庭園内の苑路を巡っているのである。
時代は下るが、『風俗画報』増刊第257号(明治35年10月5日)掲載の「横浜名所図会」には、「高島山」として高島邸が紹介されている。一部、引用すると、「同氏(高島嘉右衛門のこと)の邸内は何人も自由に入りて眺むる事を得べく、其庭前より入江を隔てゝ横浜の方を見晴す景色は、又他に其比を見ざる所なり」とある。つまり、高島邸は一般に開放されていたのである。銅版画に描かれた風景から判断すると、完成当初から高島邸には自由に出入りができたのであろう。
これは、明治を代表する豪商たちの邸宅にも共通する事柄である。たとえば、野毛に居を構えていた野沢屋の茂木惣兵衛は、明治の中頃から菊の栽培をはじめ、秋になると庭園を一般に開放していた。個人の大邸宅も、花を愛で風景を楽しむ市民たちが憩い集う、ひとつの名所だったのである。
当時の高島邸庭園を写した貴重な彩色写真が、図2である。写真の下に「TAKASHIMA GARDEN AT KANAGAWA」との題字が貼られていたため、高島邸と判明した。この写真は、『開港のひろば』71号(平成13年)で紹介済みであるが、再度紹介しておきたい。庭園の奥に写っている左側の瓦葺きの建物こそ、現存する高島邸だからである。
図2 明治期の高島邸庭園

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