展示余話
「団菊以後」の横浜
『団菊以後』とは、劇界の長老であった伊原敏郎(青々園)の著書名である(昭和12年刊)。明治36年(1903)に相次いで逝去した二大俳優、九世市川団十郎、五世尾上菊五郎没後の劇界を対象とした同書の書名は、それ以上の意味をこめて(翌年初世市川左団次も没したので「団菊左以後」とする場合もあるが)一人歩きしていると思われる。それは、「団菊以後」の劇界に生じた大きな変化が、ことさら両優の死を、明治歌舞伎の終えんとして強く印象づけたことに理由があろう。それでは「団菊以後」の演劇界は、横浜にどのような変化をもたらしたのであろうか。
明治の歌舞伎興行
明治時代、江戸歌舞伎の興行のありかたは漸次解体していった。それまでは、俳優自体が、劇場の所有者であり、かつ興行の責任をもつ「太夫元」であった。たとえば、代々、中村勘三郎が中村座の、市村羽左衛門が市村座の、守田勘弥が守田座の、それぞれ太夫元であったように。その太夫元が明治期に解体し、大きくいえば、俳優と、座主と、興行主(プロデューサー)とに分離していった。それでも、特定の俳優が特定の劇場を根城にする旧慣は続き、劇場のトップ俳優は「座頭(ざがしら)」と呼ばれていた。また興行主も、特定の劇場を支配し、座付き以外の俳優を配する歌舞伎興行もうった。芝居興行は、当たりをとればよいものの、興行的に失敗する場合もあり、経営上不安定かつルーズな面があった。興行の費用を、特定の金主にたよる場合が一般的で、役者には「ご贔屓(ひいき)」がいて、金銭的にささえる場合もあった。明治後期の横浜では、伊勢佐木町の「雑貨商」轟由次郎は、喜楽座や横浜座の座主であり、興行主であり、「博徒」として記録された資料もある。また「運送業」柏木多七は、金主であり、興行上大きな発言権をもった。轟、柏木ともに歌舞伎の総本山である歌舞伎座や、明治座の役員も兼ねていた。横浜の豪商茂木惣兵衛の妻蝶子は、尾上菊五郎ら音羽屋連の「ご贔屓」であった。
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