HOME

WHAT'S NEW!

横浜の歩みと横浜開港資料館

利用案内

交通アクセス

施設案内と「たまくすの木」

ショップから

閲覧室でご覧になれる資料

蔵書検索(Web-OPAC)

館報「開港ひろば」
最新号
総目次
バックナンバー

画像(写真等)の利用について

リンク集
HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第82号

館報「開港のひろば」バックナンバー


展示余話
「団菊以後」の横浜


 『団菊以後』とは、劇界の長老であった伊原敏郎(青々園)の著書名である(昭和12年刊)。明治36年(1903)に相次いで逝去した二大俳優、九世市川団十郎、五世尾上菊五郎没後の劇界を対象とした同書の書名は、それ以上の意味をこめて(翌年初世市川左団次も没したので「団菊左以後」とする場合もあるが)一人歩きしていると思われる。それは、「団菊以後」の劇界に生じた大きな変化が、ことさら両優の死を、明治歌舞伎の終えんとして強く印象づけたことに理由があろう。それでは「団菊以後」の演劇界は、横浜にどのような変化をもたらしたのであろうか。


明治の歌舞伎興行

 明治時代、江戸歌舞伎の興行のありかたは漸次解体していった。それまでは、俳優自体が、劇場の所有者であり、かつ興行の責任をもつ「太夫元」であった。たとえば、代々、中村勘三郎が中村座の、市村羽左衛門が市村座の、守田勘弥が守田座の、それぞれ太夫元であったように。その太夫元が明治期に解体し、大きくいえば、俳優と、座主と、興行主(プロデューサー)とに分離していった。それでも、特定の俳優が特定の劇場を根城にする旧慣は続き、劇場のトップ俳優は「座頭(ざがしら)」と呼ばれていた。また興行主も、特定の劇場を支配し、座付き以外の俳優を配する歌舞伎興行もうった。芝居興行は、当たりをとればよいものの、興行的に失敗する場合もあり、経営上不安定かつルーズな面があった。興行の費用を、特定の金主にたよる場合が一般的で、役者には「ご贔屓(ひいき)」がいて、金銭的にささえる場合もあった。明治後期の横浜では、伊勢佐木町の「雑貨商」轟由次郎は、喜楽座や横浜座の座主であり、興行主であり、「博徒」として記録された資料もある。また「運送業」柏木多七は、金主であり、興行上大きな発言権をもった。轟、柏木ともに歌舞伎の総本山である歌舞伎座や、明治座の役員も兼ねていた。横浜の豪商茂木惣兵衛の妻蝶子は、尾上菊五郎ら音羽屋連の「ご贔屓」であった。

「開港のひろば」第82号
2003(平成15)年10月29日発行

企画展
日刊新聞、誕生ス
−『横浜毎日新聞』と文明開化の横浜−
企画展
『横浜毎日新聞』と文明開化の人々
展示余話
「団菊以後」の横浜

明治の歌舞伎興行
松竹の関東進出
「団菊以後」横浜の「大芝居」
喜楽座と連鎖劇
関東大震災とその影響
資料よもやま話
高島嘉右衛門と大綱山荘〜高島台に残る和洋折衷住宅〜
閲覧室から
新聞万華鏡(13)
新聞解話会
資料館だより




このページのトップへ戻る▲




最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
この頁の内容の著作権は横浜開港資料館に属します。Copyright(c)1999 Yokohama Archives of History. All rights reserved.