図4の写真は、晩年の嘉右衛門を写した有名なものであるが、図3と比べれば、撮影場所はこの高島邸の縁側であることがわかる。屏風の奥に見える間仕切りの扉は、ガラス戸で縁側を室内に取り込むときに付けたのであろう。ガラス戸と障子に囲まれた和洋混在の空間が生まれている。
現状では、さらに前面に増築がなされているものの、外壁部分には図3に見える軒の持ち送りや下見板が確認できる。しかし、それ以上に興味深いのは、洋風意匠が混在した室内である。
嘉右衛門が写っている縁側の左側には、和室が3室並んでいたというが、現在、玄関側の一室の建具は完全な洋風で、室内には外壁と同じく持ち送り部材が天井一面に廻っている。また、廊下側も洋風の応接間となっている(図5)。ただし、この位置にあった建具が当初から洋風であれば、図2の写真に写っていて然るべきなので、写真で確認できないということは、外壁部分を洋風に改造するときに併せてこの部屋も大きく変えられたのかもしれない。
図5 現在も残る洋風の建具

図6 和室の天井刳形

また、3室のうち一番奥の部屋の天井には、漆喰によるモールディング(刳形)がみられる(図6)。和風のなかに洋風の意匠を折衷するという、明治初期に特有の手法である。現存する例では、明治10年建設の福住旅館(神奈川県箱根町、国指定重要文化財)にも同じ手法がみられるので、年代的にも、この室内意匠は創建当初とみてよいだろう。
以上から判断すれば、高島邸は、創建時には純和風の外観をもちながら室内に洋風の意匠が混入される、いわゆる「擬洋風」住宅であったものが、ある段階で、内外ともに大きく洋風住宅の意匠が付け加えられたと考えられよう。その時期については、先に述べた洋館の移築と関係する可能性もあり、今後の検討課題としたい。
今回、高島邸の建物が現存することが判明したのは、建築史・住宅史上の大きな発見である。震災の災禍により大正期のものでさえ数少ない横浜では、明治10年代にまでさかのぼる遺構であれば、洋風住宅として現存最古ということになろう。その史的評価については、紙数の都合もあるので、稿をあらためたい。
最後に、貴重な写真アルバムを見せてくださり、また建物の撮影にも快く応じてくださった高島家の皆さまに、この場を借りて感謝いたします。
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