本町の山車は、町の重宝として、一丁目は渡辺福三郎、二丁目は平沼専蔵、三丁目は渡辺庄二郎(のち原善三郎)、四丁目は増田嘉兵衛、の各有力商店の倉庫に保管され、大神宮祭・弁天祭にあたり、人形のみを屋内に飾った、とされる。
その後、山車としては明治十二年(1879)アメリカ前大統領グラントの来浜や、帝国憲法発布、開港50年祭、大正天皇の即位の際などにお披露目された。しかし、50年祭の時期にはすでに、市街電車や電灯・電信などのはりめぐらされた電線によって、背の高い山車は運行不能になっていたのである。
今回発見された着色写真は、本町三丁目神功皇后の飾り人形をもつ山車を撮したものであり、明治23年(1890)11月の帝国議会開設を祝うハッピを着た人々が取り囲んでいる。その一人は「本三」「弁三」と記された棒をもち、運行の指示をしているようであり、人影に隠れて、山車をひく牛が確認できる。運行中の本町の山車の写真はこれが最初である。
飾り人形の作者は、一丁目・四丁目と同じで、「名匠」と謳われた仲秀英(なかしゅうえい)(都梁斎)。江戸型山車の研究者である作美陽一氏は、仲秀英は東京以外では、数台まとまって受注をうけたと考えられ、未発見の二丁目の山車も仲秀英作と思われる。また、仲は受注を受けると「山車屋」と呼ばれる宮大工に山車製作を下請けさせていたが、天保末期に誕生した囃子台上部が欄間仕立てになっている形式の四丁目、それを発展させて唐破風造りの屋根を載せた一丁目に比べて、三丁目の山車は正面囃子台の舳先に鳳凰をあしらったものであり、より進んだ形式の豪華な江戸型山車で、各町競って異なる形式の山車を製作させたのであろう、とのご教示をいただいた。三丁目は原善三郎・茂木惣兵衛ら有力商が軒をならべ、その財力が「豪華」な山車に反映したのかもしれない。
図録『20世紀初頭の横浜』38頁に、大正7年(1918)11月に挙行された第一次大戦戦勝祝賀仮装行列に登場した「天の岩戸」の花自動車の写真が掲載されている。図録編集当時は「似ている」と思いつつも、この人形が一丁目山車の飾り人形であるとの確証はつかめなかった。しかし今は天照大神の飾り人形は、時代が移り、自動車に乗り移って横浜の町を運行したのでは、との思いを強くしている。
大戦戦勝祝賀仮装行列の天照大神の花電車 当館蔵
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