オデヲン座の「カビリア」
明治44年(1911)12月、長者町に開業したオデヲン座は、山下町の貿易商平尾商会の試写館として、輸入フィルムを東京よりも早く公開し、今日も使われる「封切り」の語を生み出したといわれる。
オデヲン座については、丸岡澄夫著『オデヲン座物語』(1977年)があり、また、田中純一郎著『日本映画発達史I』(1957年)でも封切館としての位置が論じられている。日本公開映画の網羅的目録であるキネマ旬報社編『日本映画作品大鑑』(1960年)にも数多くのオデヲン座封切り映画が記録されている。しかし今回の展示を準備する過程で、洋画封切館としてのオデヲン座の重要性を、これまでに以上に評価すべきことが判ってきた。
大正5年(1916)4月29日・5月10日に前後編にわたってオデヲン座で封切られたイタリア映画「カビリア」は、3時間半の前代未聞の超大作であった(サイレント映画であることは言うまでもない)。紀元前3世紀頃を舞台とする史劇で、カメラを移動車に乗せて撮影する新手法は、豪壮なカルタゴ大聖殿のセットや入り乱れて闘う群衆シーンをダイナミックに映し出し、圧倒的な迫力を誇った。5月8日の『横浜貿易新報』は、この映画が大作で、興行権が莫大な呼び値であるから、東京では興行されるかどうかわからない。東京で興行されなければ、他都市で興行されるはずもなく、「此大写真を最初に見物の出来た横浜市民は何たる幸福であらう」としている。結局「カビリア」は、天然色活動写真株式会社(天活)が平尾商会から興行権を買い、5月27日帝国劇場を始まりとして公開された。
丸岡氏によれば、このようなオデヲン座「封切」の映画は、これまで『発達史』や『作品名鑑』で確認されているものよりも、ずっと多くを数えることができ、またオデヲン座でのみ公開されたものもある、とのことである。そしてオデヲン座公開の映画の邦題が、東京で公開された邦題と必ずしも同じでなく、それが封切館としてのオデヲン座の過小評価につながっているとされる。オデヲン座は大正11年(1922)松竹キネマの「直営」になるまで、「封切館」としての地位を保った。
今回の展示では、『オデヲン座ウィークリー』(故六崎彰氏寄贈、1924〜42年)などの映画館の週報、各種チラシ、関係図書などの映画関連資料を閲覧室で特別公開します。
(平野正裕)
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